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サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第9回:パーソナル・コンピュータ前史】

2023.10.23

コンピュータは、かつて、象牙の塔の中の曲がりくねった道の先にある隠し部屋に鎮座する神聖な御本尊であった※1。ジェット機をプライベートジェット機として個人で所有するという考えが、限られた特権階級以外には今でも「妄想」であるように、コンピュータがパーソナル・コンピュータとして人々の手元に届く前の時代、いわゆるメインフレームと称される汎用の大型コンピュータだけがコンピュータであった時代には、個人がコンピュータを所有するなどという発想はなく、実際に、限られた人間のみが扱うことができるものであった。前に触れた、ミニコンといわれた名機PDP-1 を開発したDEC社でさえも、家庭用のコンピュータは不要であると考えていたのである。

 

そもそもコンピュータが実用化されたのは、1946年にペンシルバニア大学で開発されたENIACが最初であったといわれている。ENIACは、2万本近くの真空管を搭載した演算処理システムであり、60秒間の弾道を30秒で計算したという。エンジニアが計算機で同じ計算をすると20時間ほどかかるといわれていたことから、当時としては非常に画期的なシステムであったといえよう。

 

その後、コンピュータ界を席巻したのが、巨人IBMである。ENIACの流れをくんで1950年に登場したUNIVAC以降のコンピュータ市場は、IBMの寡占状態となった。1954年に発表されたIBM704、真空管に代えてトランジスタを搭載した、1959年に発表されたIBM7090、さらに、1964年に発表されて大ヒットとなったSystem/360等、技術力と企業規模(資金力)とを活用して次々とメインフレームを投入し、コンピュータ市場に帝国を築き上げていったのである。

スタンリー・キューブリック※2の代表作の一つであってSF映画の金字塔ともいわれる『2001年宇宙の旅』※3(1968)に登場するコンピュータの設定等は、IBMの監修によるものであり、当時、コンピュータと名のつくところには陰に陽にIBMの影がちらついていたのである(今でいえば、GAFAのようなイメージであろうか。)。その『2001年宇宙の旅』に登場する、宇宙船ディスカバリー号に搭載された人工知能を備えたコンピュータの名前(HAL9000)がIBMのアナグラム(あえて書くのも野暮ったいが、「I」「B」「M」のそれぞれの1文字前の文字が「H」「A」「L」である。)であることは、非常に有名なエピソードである。

 

映画には、あることからディスカバリー号の乗組員を次々と殺害していくという「謀反」を働いたHAL9000(非常にスリリングで目が離せないシーンなので、未見であればぜひ観てみてほしい。)が、その思考機能が停止せしめられて意識がぼやけていく中で、スタンダードなポピュラーソングである“Daisy Bell”を歌うというシーンがある。HAL9000が“Daisy Bell”を歌ったのは、1961年のベル研究所で、IBM7094を使用してコンピュータが初めて歌った歌が“Daisy Bell”であったというエピソードに基づくものであり、当時のコンピュータの世界の住人からすれば、「ニクい演出だね!」といった感じの極めて象徴的なシーンであったに違いない。

ちなみに、前に触れた『ポピュラー・エレクトロニクス』(1975年1月号)で紹介されたアルテア8800を見てコンピュータの世界に引き込まれたスティーブ・ドンピアが作成したアルテア8800用の音楽プログラムを用いて、アルテア8800のデモ演奏を行った際のアンコール曲も、“Daisy Bell”であった(1曲目は“Fool on the Hill” ※4である。)。スティーブ・ドンピアの、小粋な演出であった。

 

メインフレームの時代が終わり、1970年代の後半にパーソナルコンピュータ(パソコン)の時代が到来したときには、IBM は、アップルを中心としたパソコン勢に対して劣勢ではあったものの、ビジネスユースを中心としたパソコンの投入により『帝国の逆襲』※5を果たした(このあたりの詳細は、後日、書く。)。

アップルが1984年にMacintosh※6を発表する際に放映した、ジョージ・オーウェル※7の小説『1984年』をモチーフとしたCM※8では、小説に登場する独裁者であるビッグ・ブラザーになぞらえられたとされる独裁者とおぼしき人物が映し出されたスクリーンに向かって、女性が鉄槌を投げ込むというシーンがあり、この独裁者とおぼしき人物こそ、IBMのメタファであるといわれている。

このCMに象徴されるように、1980年代のIBMは、アップルをはじめとする西海岸勢からは悪の権化のようにみられていたようである(前に触れたように、メインフレームが主流であった時代において、IBMは階層的、保守的で尊大であるという見方がされていたこととも無関係ではあるまい。)。

 

ところで、IBMのメインフレームが全盛を極めていた1962年、西海岸では、スタンフォード大学の研究機関であるスタンフォード研究所(SRI:現在はSRIインターナショナルと改称)に勤務するダグラス・エンゲルバートが、“Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework”と題するレポートにおいて、「人間の知性を拡張する技術」を提唱した。このレポートには、ヴァネヴァー・ブッシュ※9の“As We May Think”に記載されていたメメックス(Memex)※10という概念に触発されたエンゲルバートが、長年をかけて作り上げた概念が緻密に述べられており、現在のパソコンの原型のようなものが既に提示されている。

エンゲルバートは、上記のレポートにおいて、コンピュータは、単なるデータ処理の装置ではなく、抽象的な思考と処理を行う人間の知性を補うことによって人間のアシスタントになる存在であると提示した。コンピュータが人間のアシスタントになるというエンゲルバートの理想は、「コンピュータに支援された建築家がいたとしよう。彼はワークステーションのところにおり、一方の3フィートほど離れた場所には表示装置の画面があり、それは彼が仕事をするための表面であり、コンピュータ(彼の執事)によって制御され、小さなキーボードと他のいろいろな装置で対話できるものだ」※11というかたちで、“Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework”において表現された。

このレポートは、ARPA(国防省高等研究計画局)の情報処理技術部の部長であったJ.C.R.リックライダーの注目するところとなり、人間の知性を拡張する技術を開発する「オーグメント」と称されたエンゲルバートの研究にARPAから研究資金がつき、この研究を行うAugmentation Research Center(ARC)がSRI内に創設された。

 

一方で、エンゲルバートの研究は、当時としては斬新な発想であって、人々の理解が追いつかなかったこともあってか、「突拍子もない空想の産物で傾聴に値しない」とか「単なるオフィスオートメーションにすぎない」といった批判を受けることとなった。特に、これからのコンピュータの世界を牽引する最先端の技術であると目された、ジョン・マッカーシーのSAILのような人工知能研究のコミュニティからの批判が大きかった。人間の知性を拡張する技術を提供するというエンゲルバートの思想は、人間の知能をシミュレーションする(代替する)技術を提供するという人工知能コミュニティとは、根本的な思想が異なっていたのである。

もっとも、エンゲルバートは相当な夢追い人であったらしく(今風にいえば「ビジョナリー」といったところであろうか。)、彼と近しい同僚でさえ、山師と間違われないように注意しなさいと忠告したほどであるというから、エンゲルバートが受けた批判は、夢追い人であったという彼のキャラクタに起因する部分もあったのかもしれない。

 

そのような逆境の中で、数々の試練を乗り越えながら、エンゲルバートはオーグメントの研究を進めた。そしてようやく、オーグメントは、1968年にoN Line System(NLS)として日の目をみることになったのである。NLSの開発過程において、エンゲルバートは、マウス、ハイパーテキスト(の原型となるもの)、マルチウィンドウ(の原型となるもの)、ビットマップ・ディスプレイといった、現在のパソコンがあたりまえのように備えているユーザインターフェースの数々を作り出したのである。

 

1968年12月9日、エンゲルバートは、サンフランシスコで開催されたコンピュータの会議において、NLSによる初のデモンストレーションを行った。このデモンストレーションでは、エンゲルバートがNLSを用いてディスプレイ上で実行している「イベント」が、壇上の巨大なスクリーンに映し出された。スクリーンに映し出された「イベント」では、マウスを握るエンゲルバートの手の動きに追従してカーソルが動き、窓を開くように情報をディスプレイに呼び出したかと思うと、その情報を開いたまま更に窓を開くように別の情報を呼び出し、ディスプレイ上のテキスト情報をカーソルで指示すると別のテキスト情報に遷移するといった、当時としてはSFにしか見えないような「未来」が披露された。このデモンストレーションは、「全てのデモの母」としていまだに語り継がれている、画期的なデモンストレーションであった※12

 

ところで、エンゲルバートのARCに研究資金を提供しているARPAは、インターネットの前身となるネットワーク技術であるARPANETの開発にも着手していた。このARPANETによる最初の通信が、UCLA とエンゲルバートのARCとの間で行われた。当然、エンゲルバートは、NLSをARPANETの中核システムにしようと考えたが、NLSの操作にはコンピュータの高度な専門知識や習熟が必要で、非常に難解な作業が要求されたことから、SRI以外では使われることがなかった。

さらに、追い打ちをかけるように、ARPAによる研究資金の提供が軍事関連の研究開発のみに制限されることとなり、ARPAによるARCへの支援も打ち切られることとなってしまった。これにより、エンゲルバートのARCでの研究は行き詰まってしまい、結果として、NLSは没落していくこととなったのである。

 

その一方で、エンゲルバートの「全てのデモの母」を見てこれに非常な感銘を受けた、のちに天才コンピュータ学者の称号をほしいままにする若き日のアラン・ケイを中心としたパロアルト研究所(PARC)が、エンゲルバートの思想を承継し、パソコンの先駆けともいわれるアルト(Alto)を生み出したのである※13が、これはもう少し後のお話である。

 

その後のエンゲルバートは、彼の独創的な研究内容や、パソコンの可能性と逆を行くタイムシェアリングシステム※14を追求するあまり、孤立無援の状態となり、長く不遇の時代を過ごすこととなった。結果として、研究者としての道は閉ざされてしまい、エンゲルバートの絶頂期は、あの「全てのデモの母」として語られる1968年のデモンストレーションとなってしまったのである。彼の業績が正しく評価されるようになったのは、研究者としての道が閉ざされてからだいぶ経った1980年代の後半になってからであった。

 

エンゲルバートの研究やその成果は、パソコンが生み出されるひとつの源流を作ったともいえるものであるが、いつの時代でも、独創的な先人の行い(業績)は正しく評価されるのが難しいようだ。エンゲルバートの人生を俯瞰してみると、その軌跡は、ローリング・ストーンズを作った元リーダーであって楽器を操る天才であったにも関わらず、やがてバンドから追放されてしまったブライアン・ジョーンズとどことなくオーバーラップするのである。

そんなエンゲルバートは、ブライアン・ジョーンズとは対極でとても控えめで物静かな性格だったらしいが、「俺の言うとおりにしろ」(“Under My Thumb” ※15)とは言わないまでも、もっと強気な性格だったならば、サイバーな世界の様相はもしかして少し違ったものになっていたかもしれない。

 

<注>

※1 しかも、御本尊の安置場所を検知することができたとしても、通常は近づくことができず、御本尊にお願いをする(コンピュータにデータ処理の命令を実行する)ことができる一握りの「選民」のみが、御本尊に近づくことができたのであった。

※2 『時計じかけのオレンジ』(1971)や『シャイニング』(1980)等、数多くの名作を生み出した。暴力、セックス等の過激な描写を交えながら耽美的な世界観を紡ぎ出した『時計じかけのオレンジ』を初めて観たときの強烈なインパクトは、今でも忘れられない。

※3 小学5年生のときの同級生が、『2001年地球の旅』という漫画をノートに描いていたことを契機として、この映画の存在を知った。実際に私がこの映画を観たのは、高校生になってからであった。最初に観たときの印象は、「中盤までは面白いが、それ以降はよくわからん」といったものであったと記憶している。今でもそのときの印象と変わらない部分もあるが、そのような発言をすると「映画のことを何もわかってない」と思われそうで怖いから、この映画についてはなるべく口をつぐむようにしている。

※4 “Fool on the Hill”ザ・ビートルズ(1967)

※5 いわずと知れた、『スター・ウォーズ』シリーズの1980年の「第5作目」(エピソード5)である。

※6 今でこそMacintoshといえばアップルを直ちに想起するであろうが、80年代の当時であれば、「キットカット」のことを想起する人のほうが多かったのではないかと思われる(キットカットは当時、イギリスのロントリー・マッキントッシュ社と提携した不二家から発売されており、「マッキントッシュのキットカット」のCMでおなじみであった。)。

※7 注をつけるまでもないかもしれないが、豚を革命家に仕立てて独裁政治の恐怖をコミカルに描いた『動物農場』(1945)も、極めて秀逸である。

※8 リドリー・スコット監督によるものである。リドリー・スコットの作品といえば、出世作の『エイリアン』(1979)はもちろん、サイバーパンク映画の金字塔である『ブレードランナー』(1982)が頭に浮かぶであろう。リドリー・スコットは、サイバーな世界観の映像描写を創り出したイノベーターであり、サイバー曼荼羅的には最重要な映画監督の一人である。

※9 電気工学、アナログコンピュータの研究者であって、MITの副学長や科学研究開発庁の長官等を歴任した。

※10 ヴァネヴァー・ブッシュは、「機械化された私的なファイルと蔵書のシステム」であって、「個人が自分の本、記憶、手紙類をたくわえ、また、それらを相当なスピードで柔軟に検索できるように機械化された装置」であるとしている(中野明 著(2017)『IT全史 情報技術の250年を読む』祥伝社 P.235)。

※11 ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版 P.79~P.80

※12 デモンストレーションは、エンゲルバートが簡単に操作しているように見えたようであるが、実際には、ARCの17人のスタッフや知人の手によって操作されたようである(鶴岡雄二 翻訳 浜野保樹 監修(1992)『アラン・ケイ』アスキー出版局)。この中には、ヒッピーとハッカーの架け橋的な存在である前にも触れたスチュアート・ブランドも含まれており、プロデューサーとカメラ操作を担当していた。

※13 PARCにおけるアルトの開発者たちは、エンゲルバートの研究に着目しており、その詳細を知り尽くしていたという。その結果、エンゲルバートが開発したインターフェースに関連する技術は、アルトに存分に生かされることになった。

※14 テレタイプ等の端末とつながったメインフレームを、複数人が同時に対話形式で利用することができるシステムのことである。

※15 “Under My Thumb”(1966)ザ・ローリング・ストーンズ

 

<参考文献>

・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版

・中野明 著(2017)『IT全史 情報技術の250年を読む』祥伝社

・スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社

・鶴岡雄二 翻訳 浜野保樹 監修(1992)『アラン・ケイ』アスキー出版局

 

 

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