サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第8回:ハッカー誕生】
サイバーな世界の歩みには、いつだってハッカーが存在している。60年代にロックが世界を変えると信じられていたように、ハッカーは、コンピュータが世界を変える可能性を信じ、その可能性の実現に情熱(といったら軽いかもしれないぐらいの相当な熱量)を注ぎ、実際に変えてしまったのだ。
そもそもコンピュータ産業は、その黎明期(1950年代後半)においては、ニューヨーク州に本拠を持つIBMや、ケンブリッジにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)あるいはその周辺の企業といった、東海岸のメンバーによって牽引されていた。当時の東海岸のコンピュータ界隈は、階層的で保守的であったといわれており、なかでもIBMは階層のトップに自らを位置づけし(確かに、その企業規模や技術的な貢献度をみればそうかもしれない。)、「本物の」コンピュータを保有しているのはIBMのみであって、それ以外のコンピュータはがらくただと思っているかのような態度であったとの評価もされているようである。
一方、MITには、鉄道模型を楽しむテック鉄道模型クラブ(TMRC)があり、TMRCに所属する学生たちは、鉄道模型を電子的に制御して走行させるシステムを技術的に改良・改善して、新たな制御を作り出す活動を日々行っていた。学生たちは、互いに競い合うようにシステムの改良を行い、関わることそれ自体が名誉あるいはクールとみなされた改良は、「ハック」と称された。「ハック」の語は、MITの学生が仕掛ける人騒がせないたずらのことを指す隠語として昔から使用されていたが、TMRCのメンバーには、クールで、独創的で、技術的に高度な改良についての尊敬を表す語としても使用された。
TMRCでは、システムの改良に最も貢献したメンバーが、誇りをもってハッカーと自称するようになった。ここに、TMRCを母体としてハッカー※1が誕生したのである。
ところで、当時、MITでは、一流の数学者でかつ新時代のコンピュータ学者であるジョン・マッカーシーがプログラミングの講座を開講しており、テックマニアのTMRCのメンバーも、もちろんこの講座を受講していた。彼らは、講義の終了後に、リンカーン研究所※2からMITに貸与されたTX-0というコンピュータを独占的に使用して、コンピュータに対する知見を深めていった。
ジョン・マッカーシーは、人工知能(AI:Artificial Intelligence※3)の研究も行っており、その一環として、AIを用いてコンピュータ(IBM704)がチェスをするプログラムを研究開発していた。この研究開発を、ジョン・マッカーシーの監督のもとでTMRCのハッカーが引き継ぐこととなった。結果として、MIT の第一世代のハッカーは、AIの研究とも関連をもつこととなったのである。
TMRCのハッカーは、寝食を忘れてTX-0と対話し(その様子は「飢えたように好奇心に燃えるサイエンス狂」※4であったという。)、新たなコンピュータ・プログラミングの手法を確立しつつあった。このような彼らのコンピュータに対する哲学、信念、慣習等は後年、スティーブン・レビーによって「ハッカー倫理」として次のように紹介された※5。
・コンピュータへのアクセス、加えて、何であれ、世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ全面的でなければならない。実地体験の要求を決して拒んではならない!
・情報はすべて自由に利用できなければならない。
・権威を信用するな – 反中央集権を進めよう。
・ハッカーは、成績、年齢、人種、地位のような、まやかしの基準ではなく、そのハッキングによって判断されなければならない。
・芸術や美をコンピュータで作り出すことは可能である。
・コンピュータは人生をよいほうに変えうる。
階層的で保守的であった東海岸(当時の様子を「修道院のようである」と評されたMITも、その例外ではなかった。)ではあったが、ハッカーがコンピュータを自由にハックできる雰囲気が、MITの中にも密やかに存在していたのだ※6。
1961年になり、DEC社製のPDP-1という新しいコンピュータがMITに導入された。このPDP-1は、TX-0の対話原理を進化させた設計となっており、第一世代のハッカーに駆使されて、世界初の種々のアプリケーションソフトウェア(例えばテキストエディタやワープロ、音楽プログラム等)を生み出した。前にも触れたスティーブ・ラッセルが作り出した世界初のコンピュータ・ゲームの『スペース・ウォー!』が初めて動作したのも、PDP-1の上であったといわれている。
「のろすけ」というあだ名で呼ばれていたSFファンのスティーブ・ラッセルは、ジョン・マッカーシーのもとで彼のためにプログラムを書いていた。ジョン・マッカーシーは、AIを機能させるプログラムとしてLISPというプログラミング言語を開発し、スティーブ・ラッセルは、このLISPを実装可能とするためのインタプリタを書いた。
ジョン・マッカーシーのもとで仕事をしているときに、スティーブ・ラッセルは、ジョン・マッカーシーとともにAIの研究を行っているマービン・ミンスキーが書いた、PDP-1のディスプレイに幾何学模様が描画されるプログラム(「ミンスキートロン」と言われているらしい。)に触発されて、彼のSF趣味が存分に反映された、宇宙船が宇宙空間で戦う『スペース・ウォー!』を書いたのだった。この後、『スペース・ウォー!』は、西海岸のハッカーの手によって大きく進化することになる(この点は後述する。)。
その頃、ジョン・マッカーシーは、スティーブ・ラッセルを伴って西海岸(カリフォルニア)のスタンフォード大学に赴任して、AIの研究所(スタンフォード人工知能研究所:SAIL)を開設した。西海岸は、今でこそシリコンバレーに象徴されるようにコンピュータ産業のメッカとして知られているが、そもそも西海岸は、第二次世界大戦のころはスタンフォード大学を中心とした軍需産業の一大拠点であり、ジョン・マッカーシーらが来たころは半導体産業の拠点となりつつあった。
ところで、PDP-1のような対話型のコンピュータは、60年代の後半までには、アメリカの各地の教育機関や研究所に導入されていった。コンピュータのあるところにハッカーあり。こうしてハッカー文化は、MITのみにとどまることなく、アメリカの各地で形成されていったのである。そうなると、MITのハッカーたちの中からも、MITを離れて他の地域に移る者が現れはじめた。これに伴って、ハッカー倫理も輸出(移植)されることとなったのだ。
MITのハッカーたちにとって最適な移動先といえば、ジョン・マッカーシーが赴任したスタンフォード大学のSAILであった。これまで幾度となく述べてきたように、当時の西海岸は、政治的及び文化的に自由であって、反戦活動、公民権運動、フリースピーチ運動、ヒッピー、サイケデリック、フォークロック等といったカウンターカルチャーのるつぼであった。そのような西海岸(のカリフォルニア)にハッカーたちが入り込むことに、東海岸のコンピュータ界隈やMITのハッカーたちは、いい顔をしなかったという。スタンフォードに移るハッカーに対して、MITのハッカーたちは「ハッキングの本場を離れて、よくカリフォルニアに行く気になるな。」※7と言ったともいわれている。
スタンフォード大のハッカーが、バレーボールを楽しむためにコンピュータの前を離れたり、付属機関としてサウナの設置を嘆願したりといった、およそMITのハッカーには考えられないような享楽的な傾向を持ちあわせていたことを考えれば、スタンフォード大のハッカーはMITのハッカーに比べると娯楽志向が強く、「考え方がたるんでいた」との見方をされることもあったようである。
しかし、カウンターカルチャーのるつぼであった当時の西海岸は、コンピュータを神聖なものとして扱おうとする東海岸のような権威的な考え方を真っ向から否定し※8、コンピュータは、本、ラジオ、レコード、映画、テレビといったあらゆるメディアを包含した新しいメディアになる可能性があると考えられていた。西海岸では、一般の人もコンピュータを手軽に扱えるべきであると考えられていたのだ。
体制などに拘束されないで自由に生きるというスタンスにおいて共通するハッカーとヒッピーとが西海岸で交錯することによって、コンピュータは学術領域から「引きずりおろされ」ようとしていた。
偉大なハックではあるが、娯楽的な要素が強いスティーブ・ラッセルの『スペース・ウォー!』は、スタンフォード大で、複数人でプレイできるように改良されたり、リプレイ機能が追加されたりといったように、西海岸において飛躍的な進化を遂げた。MITから移植されたハッカー倫理は、開放的な西海岸の雰囲気とよくなじみ、コンピュータは西海岸でカウンターカルチャー、サブカルチャーと精神的に結びついたのである。
一方、あらゆるカウンターカルチャーの総本山である西海岸では、ゲイ文化(現在はLGBTと言い換えるべきであろうか。)もカウンターカルチャーと強く結びついたのである。現在でも、サンフランシスコは「ゲイの首都」と称されることもあり、その中心地からほど近いカストロ地区には、LGBTの象徴であるレインボーフラッグが翻り、ゲイバーやゲイクラブやゲイショップが立ち並んでいる。このカストロ地区では、ゲイのカップルが手をつないで歩き、公然と抱き合ってキスをする等、開放的で進歩的な雰囲気が横溢しているという。
ペットショップボーイズ※9は、「ゲイ文化の総本山であるサンフランシスコへ行こう」といった意味が込められているといわれている“Go West”をカバー※10して大ヒットさせ(ちなみに、ペットショップボーイズは二人ともゲイであるという。)、ゲイをテーマとした作風で知られるイギリス人画家のデイヴィッド・ホックニー※11は、ロサンジェルスに長く住んでいる。全てのカウンターカルチャーに対して等しく門戸が開かれていたからこそ、コンピュータは、西海岸において自由な発想で設計されていったのである(だからこそ今、我々の手元にはパソコンが常に存在しているのである。)。
ところで、権威的な東海岸では、ゲイ文化はどのように受け止められているのだろうか。この点について、私は深い知見を持ち合わせていないが、ニューヨークで「女性」に“Walk on the wild side” ※12(ちょっとヤバい道を歩いてみない?)と声をかけられたら、どうやら「そういうこと」らしい。
<注>
※1 彼らがハッカーの第一世代であり、この第一世代の著名なハッカーとしては、ピーター・サムソン、アラン・コウトク、ボブ・ソーンダースらの名が挙げられる。
※2 MITと提携していた、軍事技術の研究開発を行っていた研究所である。
※3 この言葉を聞かない、あるいは見ない日はないといっていいくらい、現在では社会に浸透しているが、コンピュータに知能を持たせて種々の課題を解決させようとするコンピュータ技術についてこのように命名したのも、ジョン・マッカーシーである。
※4 スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社 P.21
※5 スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社 P.32~P.45
※6 TMRCのOBで、当時、大学院生であったジャック・デニスがTX-0を管理しており、これをTMRCのハッカーに自由に使用させていた。
※7 スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社 P.180
※8 丸 幸宏 尾原 和啓 著(2019)『ディープテック 世界の未来を切り拓く眠れる技術』(日経BP)では、「西海岸には東海岸のエスタブリッシュメントに対するクリエイターのカウンターカルチャー的な成り立ちがある」との指摘がなされている。
※9 イギリス出身のニール・テナント、クリス・ロウの二人組のポップデュオであり、彼らを知った中学生の頃の私は「変な名前だな」と思ったものの、2作目のシングル“West End Girls”は、それこそ文字どおりレコード盤が擦り切れるくらいまで聴き込んだものである。
※10 オリジナルは、ニューヨーク出身のポップグループであるヴィレッジ・ピープルの作品である。このヴィレッジ・ピープルのメンバーも、全員がゲイであるといわれていたが、定かではない(ゲイをテーマにしたマーケティングを行っていたから、そのように考えられるようになったのではないかという説がある。)。
※11 イギリスを代表するポップアートの旗手であり、ゲイであることをカミングアウトしていた。同じくゲイであるとされるポップアートの代表格、アンディ・ウォーホールとも親交があった。
※12 “Walk on the wild side”ルー・リード(1972)
<参考文献>
・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版
・スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社
・丸 幸宏 尾原 和啓 著(2019)『ディープテック 世界の未来を切り拓く眠れる技術』(日経BP)