サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第12回:世紀末に向けて遣われしもの】
アップルⅠを発売してからもなお、ウォズはアップルⅠの改良・開発に勤しみ、アップルIIの完成にこぎつけた。アップルIIは、アップルⅠの発売から1年後の1977年に発売された。このアップルIIは、キーボード、CPU、メモリ及び外部入出力端子が一つにパッケージされたオールインワンタイプのコンピュータであって、ホームコンピュータと位置づけられた。ここに、パーソナル・コンピュータが誕生したのである。
アップルIIは、ホビイストを中心に熱狂的に迎えられるとともに、専用のアプリケーションソフトウェア※1が数多く開発されたことから、爆発的に売れ、米国で一般のユーザがコンピュータを使うことができる環境の礎を作り上げたのである。しかも、アップルIIの内部設計は、ハッカー倫理に従うウォズによってオープンアーキテクチャとされたことから、ユーザが周辺機器を自作することも可能であった。このような柔軟性がホビイストから高く評価される一方で、多数の互換機が出回ることを許容することにもなり、アップルIIのシェアにも影響を及ぼすこととなったのである。
パソコンが誕生し、アップル以外にもタンディ・ラジオ・シャック社のTRS-80やコモドール社のPETといったパソコンが登場し、パソコンの市場が立ち上がって徐々に市場が大きくなってくると、当初はパソコンをホビイストのおもちゃとみなしてバカにしていたIBMも、パソコン市場を無視することができなくなった。機を見るに敏な動きで、IBMは1981年にIBM PCを開発してリリースし、パソコン市場に参入したのだった。
ボブ・ディランが1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでアコースティック・ギターをエレキ・ギターに持ち替えたときのように、あるいはサイケなアコースティック・デュオのティラノザウルス・レックスがロック・バンドのT・レックスへと変貌を遂げたときのように、IBMがメインフレームからパソコンへと舵を切ったことは、パソコン市場に大きな衝撃を与えた。
IBM PCは、インテルの8088を搭載するとともに、前にも少し触れたマイクロソフトのMS-DOS がIBM向けに仕立てられたPC-DOSをOSとして搭載し、これまでのIBMからすれば異例であるが、周辺機器を普及させる観点から、BIOSのソースコードや回路図を公開したのである。与力を得て設計を行い、その内部設計をオープンにするという、およそIBMらしからぬハッカーのような手法とともに、その絶大な知名度の後押しもあって、IBM PCはビジネスユースで大ヒットとなった。パソコンでは完全に後発組であったものの、巨人はものすごいスピードでホビイストが作ったパソコン市場に参入してトップに躍り出たのであった。
一方、内部設計をオープンにすることによって、周辺機器の普及のみならず、IBM PCの本体の互換機を作るメーカが多く設立されることとなった※2。
その後、IBMは、高性能を誇るインテルの80286(CPU)を搭載したIBM PC/ATを1984年に発表し、これが大ヒットした※3。この大ヒットを起因として、IBM PC/ATを合法的に互換したPC/AT互換機が各社から登場し、PC/AT互換機の市場が急速に形成されて、IBM PC/AT及びPC/AT互換機は、ビジネスユースのパソコン市場のデファクト・スタンダードとなったのである。
ハッカーがハッキングだけを追求する時代は終焉を迎え、カウンターカルチャーの影響を受けたホビイストが作り上げたパソコンは、アメリカを代表する新たな産業となったのである。パソコンという新たな産業は、ベトナム戦争で疲弊した「アフター・ベトナム」のアメリカを支えるひとつの新たな光明であったといえるだろう。
ベトナム戦争を指導したアメリカという国家に対する反体制運動が、ビートニクを起源とするサブカルチャーと結びついてカウンターカルチャーが興り、カウンターカルチャーと結びついて誕生したパソコンがアメリカを支える光明になるというのも、偶発的に生じた奇妙な連鎖であるが、ウッドストックを生んだカウンターカルチャーの平和志向が、アメリカを救ったのだともいえるかもしれない。
話はいったん、1972年まで少し時代を遡る。
「片手で持てて、単独で使えるグラフィック・コンピュータ」を作るというダイナブック構想を抱いていたアラン・ケイは、ダイナブック構想を実現するためのコンピュータを、ゼロックスのパロアルト研究所で製作することを画策していた。出来上がったコンピュータの試作機(1号機)は、「Alto」(アルト)※4と命名された。片手で持てるほど小さくはなかったものの、AltoはPDPシリーズのようなミニコンよりもコンパクトで、ビットマップディスプレイ、マウスといったインターフェースやGUI(Graphic User Interface)を搭載し、WYSIWYG(What You See Is What You Get)※5を目指した対話型のコンピュータであった。
アラン・ケイは、Altoに関する論文の発表を何度も試みるも、パロアルト研究所はこれをいっさい認めなかった。しかし、デモンストレーションを行うことには積極的だったことから、Altoのデモンストレーションを見るためにコンピュータ界隈から多くの人々がパロアルト研究所を訪問した。この訪問者の中には、スチュアート・ブランドも含まれており、デモンストレーションを見た際のスチュアート・ブランドのレポートが『ローリング・ストーン』誌に掲載されて大きな反響を及ぼしたことは、前に触れたとおりである※6。
1979年には、スティーブ・ジョブズもパロアルト研究所を訪問している。この訪問で、ジョブズがAlto に衝撃を受け、特にGUIには啓示のようなものを受けて、アップルIIに続く※71983年のLisa、1984年のMacintoshにGUIを搭載したことは有名な話である。
アップルは、前に触れた、IBMを悪の帝国と見立てたディストピア的なCMとともに満を持して1984年に発表したMacintoshで、当時、隆盛を極めていたIBM PC/ATの追い落としを狙った。アップルは、オープンアーキテクチャによって多くの互換機が出回ることになったアップルIIでの経験を踏まえて、Macintoshではハードウェア及びソフトウェアを内製化してアーキテクチャをクローズ化し、垂直統合モデルを採用した。
GUIを搭載したMacintoshは、扇情的なCMとともに大きな話題となって、ある程度の売り上げを作りはしたものの、アーキテクチャをクローズにしたMacintoshは、ビジネスユースで大きなシェアを誇っていたIBM PC/ATやPC/AT互換機の牙城を崩すまでには至らなかった。しかし、Macintoshは、ビジネスユースとは一線を画したパーソナルユースで支持されて(特にクリエイターやデザイナーあたりの支持が強かった。)、一定のシェアを保持したのである。
パソコン市場において最大のシェアを占めることとなったPC/AT互換機が、IBMと同様にインテルのチップを搭載し、かつマイクロソフトのMS-DOS(PC-DOSではない。)を搭載したことから、市場のパソコンの多くがインテルのチップとMS-DOSとをセットで搭載することとなった。MS-DOSが90年代にWindowsに移行すると、これらの組み合わせはウィンテル(Wintel)と称されるようになり、パソコン市場に長く君臨したのである。
このように、IBMが採用したオープンアーキテクチャによって市場を作り上げ、「ウィンテル連合」などと揶揄まじりに称されるほどに強大なパソコン帝国を築いてきたPC/AT互換機であったが、オープンアーキテクチャを契機としてコモディティ化を招くこととなり、PC/AT互換機を作る各社の間で製品の差別化が困難となったことから、熾烈な過当競争に突入することとなった。この過当競争に、本家当主のIBMも飲み込まれていくこととなり、IBMはやがてパソコン市場から退場することになるのである※8。
PC/AT互換機を製造する各社の間で過当競争が激化していた1998年、アップルは、美意識の高いデザインコンセプトの下で開発したiMacをリリースした。このiMacは、青緑色(ボンダイブルー)で半透明というデザイン性の高いボディを備え、周辺機器のインターフェースとしてUSBを搭載し、大ヒットした。1984年のMacintosh以降、一定のシェアは有していたものの、アップルは、製品コンセプトのブレやスティーブ・ジョブズの退任(1997年に復帰した。)といった経営の混乱等によって長い間くすぶっていたが、iMacの大ヒットによって、再びパソコン市場で頭角を現わし始めたのである。
ところで、80年代の初頭の日本のパソコン市場では、NECのPC-8800、富士通のFM-7及びシャープのX1のいわゆる「8ビット御三家」(日本人は、なにかと「御三家」や「三大〜」などと「3つ」に括りたがる傾向があると聞いたことがある。)と称される8ビット・パソコンが牙城を築いており、ビジネスユース及びホビーユースのそれぞれに応えていた。さらにその周囲に、マイクロソフト及びアスキーを中心とした規格であるMSXが張りついていた(若かりし一時期、私がMSXに心惹かれていたことは、以前触れたとおりである。)。
1982年にNECが16ビットのCPUを搭載したPC-9800シリーズをリリースすると、それに倣うかのように、他社も16ビットのパソコンをリリースし、特にビジネスユースを中心として、時代は徐々に16ビットへと移行していった。
NECのPC-9800は、PC/AT互換機ともMacintoshとも異なる独自のアーキテクチャを備え、マイクロソフトのMS-DOSをOSとして搭載すると、日本のパソコン市場において広く普及するようになった。普及しはじめると、PC/AT互換機が出回ったときと同様に、PC-9800の互換機が登場することになったのである※9。このように、日本では、グローバルなベースでパソコン市場を制していたPC/AT互換機ではなく、日本独自の仕様のパソコンが流通することとなった。この一因として、PC/AT互換機では日本語表示に対応できないといった事情があったことが指摘されており、PC-9800をはじめとする日本独自の仕様のパソコンは、漢字ROMといったハードウェアを搭載することで日本語表示を実現していた。
1990年に入ると、IBMの日本法人である日本IBMが、漢字ROMを使わないでソフトウェアのみで日本語表示を可能とするDOS/Vをリリースした。DOS/Vは、PC/AT互換機で作動するOSであって、マイクロソフトの日本法人である日本マイクロソフトもリリースした。これによって、日本でもPC/AT互換機が次第に普及するようになり、DOS/Vを搭載したPC/AT互換機がいつのまにかDOS/V機(DOS/Vマシン)などと称されるようにもなった※10。
1995年に、マイクロソフトが衝撃的なWindows95をリリースするころには、日本独自のアーキテクチャを採用していたのはNECのみとなっていた。しかし、NECも1997年にリリースしたPC98-NXシリーズからPC/AT互換機へと転じ、日本独自のアーキテクチャを採用したパソコンは、ここに終焉を迎えたのである。
80年代は、イラン・イラク戦争の勃発、東西冷戦の終結、東西ドイツの統合といった破局と融和が繰り返され、ジョン・レノンの射殺やチェルノブイリ原発事故の発生といった衝撃が入力され、ロックが映像先行型のMTVと結びついて商業化の一途を辿るといった「不運」※11に見舞われ、国内に目を転じれば、空前のバブル景気による熱狂や、「昭和」から「平成」への改元といった歴史的な事象が刻まれたといったように、政治経済的及び社会文化的に混沌とした時代であって、サブカルチャー的に大流行したノストラダムスの大予言といった終末思想(世紀末思想)と結びついて、世紀末の最後の10年を迎える前夜祭的な狂騒に湧いた時代であった。
このような狂騒の80年代に煌びやかに花を開いたパソコンは、あたかも、世紀末を乗り越えるために天上の存在から遣わされて人々に「世紀末だ。刮目せよ。」と啓示する使徒であるかのように、人々の眼をデジタルに開眼はさせたものの、少なくとも一般の人々にとってみれば、パソコンは、パソコンと自分という一対一の関係性にほとんど限定されたスタンドアローンな情報機器※12であった(もちろん、当時はそれでも十分に神秘的な体験であった。)。
サイバーな世界は、単なる計算のみならず情報処理を網羅的に行う本格的な商業用コンピュータであるメインフレームの登場というイノベーションが起こったファーストステージ、及びメインフレームにとって代わるパソコンの登場というイノベーションが起こったセカンドステージを経て、90年代中頃から2000年代にかけて、パソコンがネットワークと結びつくことによってソフトウェア等のデジタル情報を処理するというイノベーションが起こったサードステージ(“Third Stage” ※13)に突入するのである。
<注>
※1 これらのアプリケーションソフトウェアのうち、1979年に発売された表計算ソフト「VisiCalc」(ビジカルク)は、会社員であっても確定申告が必要なアメリカにおいて絶大な支持を受けたといい、このソフトウェアの存在がアップルIIの成功の大きな要因となっている。
※2 1982年に設立されたコンパックは、その代表例であろう。IBM PCの互換機を作成するにあたり、コンパックは、公開されているIBM PCのBIOSコードの著作権侵害となることを回避する観点から、BIOSコードの機能解析(リバースエンジニアリング)と、互換機に搭載するBIOSコードの再構成とを分けて行う「クリーンルーム設計」を採用したという。周到な知財戦略のもとで、互換機ビジネスが進められていたといえよう。
※3 ビジカルクのIBM版ともいえる表計算ソフトの「Lotus 1-2-3」(1983年)がIBM PC/AT(及びPC/AT互換機)に対応することになったことも、大ヒットの一因であるとされている。
※4 おそらくは、パロアルト研究所をもじって命名されたのであろう。
※5 ユーザが見るディスプレイの表示と他の媒体での表示(例えばプリントアウト)とが一致するように処理する技術のことをいい、一般的に「ウィジウィグ」と称呼される。この言葉も、パロアルト研究所で誕生したものである。
※6 パロアルト研究所は、ロックの雑誌である『ローリング・ストーン』誌で紹介されたこと、しかも幻覚剤(サイケデリック・ドラッグ)と比較されて紹介されたこと(「幻覚剤を手にして以来の衝撃である」といった趣旨の内容が含まれていた。)に、相当な難色を示したようである。
※7 厳密には、アップルⅡとLisaとの間に、短命で終わったアップルⅢが存在している。
※8 2004年に、パソコン事業を中国のレノボに売却した。当時のフラッグシップモデルであった「ThinkPad」シリーズは、レノボによって現在も継続されている。
※9 エプソンがEPSON PCという互換機をリリースした。
※10 WindowsのみをOSとして搭載するPC/AT互換機でさえも、DOS/V機と称される「誤用」もあったという。
※11 もちろん、80年代にも傑出したロックやポップスは数多く誕生したが、10年単位で俯瞰した場合に、ロックが誕生した60年代やロックの黄金期を迎えた70年代、あるいはポストロック的な新たな方向性が提示された90年代と対比すると、80年代は総じて「不毛」な10年間であったと把握するのが個人的な見解である。
※12 その当時、「パソコン通信」というネットワーク通信手段で他者と通信することが可能ではあったものの、これをもってパソコンをネットワーク機器として把握することはできないであろう。
※13 “Third Stage”(1986)ボストン
<参考文献>
・スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社
・鶴岡雄二 翻訳 浜野保樹 監修(1992)『アラン・ケイ』アスキー出版局
・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版
・平塚三好 阿部仁 著(2015)『ICT知財戦略の基本がよ〜くわかる本』秀和システム
・フリー百科事典『ウイキペディア』「Apple II」、「パーソナルコンピュータ史」、「IBM」、「PC/AT互換機」、「DOS/V」