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サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第7回:ヒッピーとサイケデリックの時代】

2023.08.21

これまでみてきたように、サイバーな世界を紡ぎ出してきたハッカーは、ヒッピーと大きなつながりを持っているが、そのヒッピーの源流をたどり、彼らの運動によって産み落とされた文化的遺産(主に音楽面での遺産)に触れつつ、社会的な影響についても言及することが、今回の狙いである。

 

初期のヒッピーの代名詞といえば、前に触れたケン・キージーとメリー・プランクターズであろう。そもそもこの頃は、彼らのようなボヘミアンにヒッピーという呼称は与えられておらず※1、後の時代には等しくヒッピーと呼称される初期のヒッピー達は、アレン・ギンズバーグ※2やジャック・ケルアック※3、ウイリアム・バロウズ※4といったビート・ジェネレーションの作家に多大な影響を受けていたことから、当時はビートニクスなどと称されていたようである。

反戦運動、公民権運動、ドラッグ解禁の呼びかけ、性の解放(フリーセックス)の訴え等といったヒッピー運動は、67年1月のヒューマン・ビー・イン※5から同年6月のモンタレー・ポップフェスティバル※6に亘るサマー・オブ・ラヴ※7といわれた時代に大きなムーブメントとなって現れた。

 

ヒッピー運動は、「ラヴ&ピース」や「30を超えた人間は信じるな。」※8を合言葉として、ベトナム戦争真っ盛りの当時の世相と相まって急速に拡大し、ロック音楽やファッション、アートなどに大きな影響を与えた。このヒッピー運動から生じた成果物を総称したものが、ヒッピー文化である。ヒッピー文化の特徴といえば、なんといってもやはりサイケデリックであろう※9。さまざまな解釈があるであろうが、一つの解釈では、サイケデリックとは「ドラッグによる意識混濁ないしは意識の変容を、芸術によって再現しようというムーブメントである」とされており※10、視覚的には、歪んでいてカラフルなレタリング、極彩色のペイズリー柄や入り組んだ幾何学的な模様、眩暈を起こさせるような三次元表現等といった、ドラッグが見せる夢をモチーフとしているかのような特徴的な表現形態を有している。

 

サイケデリックは、ロック音楽と結びついてサイケデリック・ロックを誕生させた。サイケデリック・ロックは、歪んだギターサウンドや特殊効果音等が宙を駆けるような空間的な音響効果によって生み出される独特の浮遊感を漂わせていることを特徴としており、ロン毛、髭、ヘアバンド、サイケ柄の上着、ベルボトムといったヒッピーファッションとともに、西海岸から海を渡り世界中に広まっていった。

海を渡ってヨーロッパにたどり着いたサイケデリック・ロックは、ビートルズ、ローリング・ストーンズ※11、ピンク・フロイド※12、ザ・フー※13、クリーム※14、スモール・フェイセズ※15、ホリーズ※16、ドノヴァン※17、ゾンビーズ※18等、枚挙にいとまがないくらいのブリティッシュ・ロック勢に多大な影響を及ぼした※19。逆に、この時期のブリティッシュ・ロックに、サイケデリック・ロックの影響を免れたものを見つけることのほうが難しいであろう。

なかでもビートルズは、その当時既に世界を揺るがすスーパー・グループであったにも関わらず、「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」(1967)や「Revolver」(1966)といったアルバムで、逃げも隠れもせず真っ向からサイケデリック・ロックに取り組み、その実験精神を同時期の他のアーティストに見せつけた。全てとまではいわないが、多くのブリティッシュ・ロック勢は、ビートルズに触発されてサイケデリック・ロックに取り組んだといっても過言ではないであろう。

 

一方、ヒッピーの聖地であるご当地の西海岸(サンフランシスコ)でヒッピーに愛されたサイケデリック・ロックといえば、ワーロック(魔法使い)※20と呼ばれていたグレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスなどが挙げられる。

 

グレイトフル・デッドは、ロサンゼルスやベイエリア近辺をケン・キージーらとともにバスで巡り、即興演奏が流れ、幻惑的な映像やストロボライトに囲まれながらLSDでトリップするアシッド・テストと称されるイベントを象徴するバンドとしても知られている。その音楽性は、例えば、ヒッピー讃歌のような“いかにも”な“The Golden Road”、キャッチーな“Cold Rain and Snow”、混沌とした音の中からリフが浮かび上がる“St. Stephen”、即興演奏のようで実は入念に作り込まれた“Alligator”、悪魔が憑依したかのような“Dark Star”等の曲でみられるように、浮遊感があってどこか魔術的で、決してヒットチャートを駆け上がるようなものではないものの、彩り豊かで創作性にあふれた、いずれも後世に残すべき名曲揃いである。

特に近年では、例えばライブ会場において演奏の録音を許容することでファンを増やして囲い込むという、近年のオープン・クローズ戦略の先駆けとも把握できるフリーミアムな手法をはるか50年も前から実践していたという点において、ビジネス面からの関心も集まっている※21

 

主にアンダーグラウンドでのコアな支持を得たグレイトフル・デッドとは対照的に、ジェファーソン・エアプレインは、表舞台において商業的に成功している。特に、骨太で格調高く歌い上げる女性ボーカリストのグレイス・スリックが加入した2枚目のアルバムの「Surrealistic Pillow」(1967)はバンドの代表作であり、このアルバムには、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をモチーフにしてドラッグ体験のことを歌ったとされる、時代を象徴的するかのような“White Rabbit”という名曲が収録されている。

 

クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスは、残念ながらよく知らない…。

 

これら以外にも、当時のサイケデリック・ロック勢としては、自身もヒッピーだったジャニス・ジョプリンが在籍していたことでも有名なビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー※22、ラヴ※23、バッファロー・スプリングフィールド※24、彼らのキャリアの中では異色な超名盤の「Pet Sounds」(1966)※25を残したビーチ・ボーイズ等が挙げられよう。

 

西海岸を中心としてサイケデリック・ロックが百花繚乱の様相を呈する中、カウンターカルチャーであるヒッピー文化の集大成、ロックの頂点とも位置づけられる伝説的なロック・フェスティバルである、ウッドストック・フェスティバル(ウッドストック)が開催された。ウッドストックは、マイケル・ラングら4人の若者を中心とした企画及び運営の下で、1969年8月に、ニューヨーク州のヤスガー農場で40万人(一説では50万人ともいわれる。)を集めて3日間に亘って繰り広げられた。

ウッドストックは、「フェス全体がひとつのコミュニティとなるような平和と音楽(芸術)の祭典」というマイケル・ラングの理想を実現したものであった。50万人ともいわれる大観衆が集まった中で、急激な天候の悪化、食糧不足、劣悪な環境等といった負の要素が積み重なったにも関わらず、集まった大観衆がマイケル・ラングの理想に応えたかのように、フェスティバルは暴動が起こることもなく平和の裡に終わった。

 

ウッドストックは、当時のロック・フェスティバルとしては群を抜いた巨大なイベントであって、60年代のアメリカを生きた若者の「輝かしい記憶の余韻」と最大級の賛辞をもって評価されている。そのような評価は、上述したマイケル・ラングの理想及びそれに応えた観衆の存在や、出演したアーティストの演奏の素晴らしさに起因することもさることながら、例えば、インドの導師であるスワミ・サッチダナンダが観衆であるヒッピーにスピーチをする、プロテスト・ソングの旗手であるシンガーソングライターのジョーン・バエズが、反戦運動や男女の平等やマリファナの合法化等を訴えて投獄された夫のデビッド・ハリスの解放をステージ上から呼びかける、あるいは街頭で政治的運動を行うイッピーズを率いたアビー・ホフマンが、ザ・フーの演奏中にステージに上がって、反戦活動家であるジョン・シンクレアの刑務所収監を抗議するスピーチを行って、ギタリストのピート・タウンゼントにギターで殴られる※26といった、およそ現在のロック・フェスティバルでは想定されないようなイベントやハプニングが織り込まれ、ロックの範疇を超えた社会の映し鏡的なイベントとしての様相を呈したことにも起因するであろう。

 

私見ではあるが、ウッドストックに象徴されるように、60年代は、ロックが世界を変えると本気で信じられていた時代であり、そのような真摯さがロックに投影されていた時代であった※27

しかし、ウッドストックを境として、ロックが産業としてビジネス化されて消費されていったとの指摘もなされており、この指摘は、70年代に入り、スタジアム級のロック・コンサートを開催するアーティストが現れはじめたという事実からすれば、無視することはできないであろう※28。これと軌を一にするかのように、70年代に入ると、前にも触れたように、ヒッピー文化もファッション化して商業化されていったのである。

 

ウッドストックは、60年代の終焉を象徴するイベントであった。ウッドストックの開催は、70年代を迎える人々の“ハートに火をつけて”※29、これによって、ロックは70年代に黄金期を迎えるのである。

 

<注>

※1 ヒッピーの語は、「流行に敏感な人」等の意味合いをもつ“hipster”を語源とするようであるが、カウンターカルチャーと結びついたボヘミアンを指す言葉として一意的に特定されるまでは、多義的に用いられた。

※2 ビート文学三羽烏の筆頭者であり、代表作『吠える』(1956)はあまりにも有名である。

※3 アレン・ギンズバーグに続くビート文学三羽烏の一人であって、前にも触れた代表作『オン・ザ・ロード』(1957)はビート文学の金字塔であり、サブカルチャーの原点であると評されている。

※4 同じく、アレン・ギンズバーグに続くビート文学三羽烏の一人であって、代表作『裸のランチ』(1959)は、あらすじがなく、ドラッグのイメージ描写が延々と続くという奇書(誤解なきよう念のために書いておくが、「奇書」はここでは最大級の賛辞として使用している。)であるが、アメリカでは古典的な文学として評価されている。

※5 人間として「在ること」の意義を問うて反戦・平和を求める運動を行う集会のことで、演説、スピーチ、コンサート等が行われた。67年1月のヒューマン・ビー・インでは、グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインらが演奏を行った。

※6 現在のロック・フェスティバルの原型であり、ジャニス・ジョプリンやオーティス・レディングらがこのフェスティバルに出演して自身の知名度を向上させた。ザ・フーが楽器(ギター、ギターアンプ、ドラム)をめちゃくちゃに破壊し、ジミ・ヘンドリックスがギターを燃やすというパフォーマンスを行ったことでも有名なフェスティバルである。

※7 ヒッピー運動が第1ピークを迎えた時代を表すキーワードとして用いられ、個人的には、ある種のノスタルジーを伴ったニュアンスで用いられることが多いように見受けられる。

※8 日本が誇るロックバンドのムーンライダースが1986年に発表したアルバムのタイトルである「Don’t Trust Over Thirty」は、ここに起源があるのではないかと思われる。

※9 我が国でも「おサイケ」などと称されて、文化的な一大潮流となってもてはやされた時期があった。

※10 『ENDLESS HIGHWAY/「ロックとその時代」を追いかける暁の名盤紹介』(http://musikus.blogspot.com/2007/05/volunteers-jefferson-airplane.html

※11 「Their Satanic Majesties Request」(1967)は全編、サイケデリックに満ち溢れた内容であって、彼らの長いキャリアからすれば極めて異色のアルバムであり、「時代の産物」であったとの評価も存在する。

※12 プログレッシブ・ロックの雄も、デビューアルバム「The Piper at the Gates of Dawn」(1967)では完全にトリップ状態のサイケデリック・ロックに興じており、続く「A Saucerful of Secrets」(1968)及び「More」(1969)にもサイケデリック・ロック調の曲が複数存在する。

※13 モッズの代弁者として登場し、ロックの歴史に重大な軌跡を残したロック・オペラ「Tommy」(1969)を生み出した彼らも、「Tommy」の発表前に「The Who Sell Out」(1967)というサイケデリックの要素が強いアルバムを発表した。

※14 活動期間が3年間という短期間で終わってしまったスーパーグループであるが、その期間に残した3枚のアルバム(「Fresh Cream」(1966)、「Disraeli Gears」(1967)及び「Wheels of Fire」(1968))はいずれも、サイケデリック・ロック(とブルース・ロック及びジャズ・ロックとの融合)の範疇に入るものである。

※15 生粋のモッズバンドで、R&Bやソウルの要素が強いロックを信条とするグループであるが、「Ogden’s Nut Gone Flake」(1968)はクールなモッド・サイケである。

※16 ビートルズ風の爽やかなコーラスとポップで軽快な曲調が売りのマンチェスター出身のグループも、この時代にはやはりサイケデリックにどっぷりと浸かった「Evolution」(1967)と「Butterfly」(1967)という2枚のアルバムを残している。

※17 イギリスのボブ・ディランとも称されるシンガー・ソングライターであり、「Sunshine Superman」(1966)や「Mellow Yellow」(1967)といった代表作では、珠玉のサイケデリック・フォークを聴くことができる。

※18 歌モノの印象が強いデュオらしく、彼らが残した2枚目のアルバム「Odessey and Oracle」(1968)は上品なサイケ(ソフト・ロック)であり、全ロックファン必聴の名盤である。

※19 本文に列挙したメジャーどころばかりでなく、いわゆるB級グループもこぞってサイケデリック・ロック調の音作りを行っていた。

※20 「ワーロックス」というピザ屋で、フォークロックを演奏するハウスバンドとして活動していたことから、このように呼ばれていたようである。

※21 デイヴィッド・ミーアマン・スコット ブライアン・ハリガン 著 渡辺由佳里 訳(2011)『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』日経BP社

※22 種々の評価はあるものの、個人的にはアルバム「Cheap Thrills」(1968)は熱気のこもった名曲揃いのアルバムであると考えており、特に「Combination of the Two」や「Piece of My Heart」は、その音から当時のヒッピーの様子が伝わってくるようである。ちなみに、バンド名にある1語の「ホールディング」は、「ドラッグを持っている」というスラングに由来するようである。

※23 繊細なフォークロックにサイケの風味をちりばめた3枚目の「Forever Changes」(1967)は彼らの代表作であり、発表から50年以上経った今でも色褪せることがない。ちなみに、彼らの2枚目のアルバム「Da Capo」(1966)には、後にパンクバンドや他の多くのバンドにカバーされる「7 and 7 is」というシビれる曲が収録されている。

※24 商業的な成功は得られなかったが、2枚のアルバム「Buffalo Springfield」(1966)及び「Buffalo Springfield Again」(1967)は、サイケデリックなソフト・ロックの金字塔である。ちなみに、「Buffalo Springfield Again」には、90年代に渋谷系として一世を風靡したフリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」(1991)の中で重要なモチーフとして使用した「Broken Arrow」が収録されている。

※25 「Surfin’ USA」(1963)に代表されるサーフ・ロックの大御所であるが、本作では全編サイケまみれのソフト・ロックを聴かせてくれる。本作は、ビートルズの「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」(1967)に多大な影響を及ぼしたといわれている。ちなみに本作にも、フリッパーズ・ギターが「ヘッド博士の世界塔」(1991)の中で重要なモチーフとした「God Only Knows」が収録されている。

※26 ピート・タウンゼントは、後のインタビューにおいて、このときのことを「仕事(ステージでの演奏)を邪魔されるとそいつを殺したくなる」と振り返っていた。

※27 一方で、ロックで社会を変えられると思い込むほどヒッピーも無邪気ではなかったとの指摘もある。

※28 これが悪いということではなく、時代の移り変わりであるといえよう。

※29 “Light my Fire”ザ・ドアーズ(1967)

 

<参考文献>

・遠藤哲夫 著『ウッドストックとはなんだったのか』(『レコードコレクターズ 2019年9月号』)ミュージック・マガジン

・竹林修一 著『カウンターカルチャーのアメリカ【第2版】希望と失望の1960年代』(2014)大学教育出版

 

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