ザ・フーのファースト・アルバムの数奇な運命 −レコードの原盤権がもたらした悲劇?−
目次
1.ファースト・アルバムの悲劇
ザ・フーという英国のロック・バンドをご存知であろうか。ビートルズ、ローリング・ストーンズと並んで3大ロック・バンドとも称される(「3大〜」と括るのは日本人の得意技らしい。)ほど、世界的には評価の高いバンドであるが、ここ日本では、15年くらい前からようやく知名度が少しずつ上がってきている気配はあるものの、ビートルズやローリング・ストーンズと比べたらその知名度は圧倒的に低いし、ザ・フーの後輩格の多くのバンドと比べても、正当な評価を受けているとはいい難い。
ところで、ザ・フーは、1965年の初頭にシングル“I Can’t Explain”を英国でリリースしてデビューした。このデビュー・シングルが英国チャートの第8位を記録するスマッシュヒットとなり、一躍、人気者となったザ・フーは、続く“Anyway, Anyhow, Anywhere”をチャートの第10位に送り込んだ後、彼らの出世作となった“My Generation”をリリースした。“My Generation”は、チャートの第3位を記録するという大ヒットとなった。この大ヒットを受けて、“My Generation”をタイトルナンバーとしたファースト・アルバム『My Generation』が、1965年の暮れにブランズウィック・レコードからリリースされた。まずは、このファースト・アルバムの超絶にイカしたジャケットアート(英国盤)を見てほしい。
My Generation /The Who (1965) Brunswick
ところが、このファースト・アルバムは、発売からわずか2年で廃盤となり、以後、2002年にCDで再発されるまで、実に35年という長きに亘って日の目を見ることがなかった不遇のアルバムとなってしまったのである。3大ロック・バンドともいわれるようなビッグ・アーティストのファースト・アルバムが、かくも長きに亘って廃盤になってしまうという、インディーズのアルバムのような扱いを受けることは、非常に稀なことであり、実際、他に例を知らない。なぜ、このような事態が生じてしまったのであろうか。ファースト・アルバムが長く廃盤である理由には、音楽業界ならではの大人の事情があることは、抽象的には知っていたものの、その詳細までは踏み込んでいなかった。
ザ・フーは、私が敬愛する3本指のバンドのうちの1指であり(他の2指はザ・キンクスとレッド・ツェッペリンである。)、やはり敬愛するバンドの実情はきちんと把握しておきたいものである。そこで本稿では、廃盤に至った当時の背景を記すとともに、そこから浮かび上がった事実に若干の理屈をつけて検討することとした。
2.知名度と廃盤
既に述べたように、ザ・フーは、ロック史において世界的には非常に重要なロック・バンドであるとの評価が一般的である一方、日本では圧倒的に知られていないことから、“東の(グレイトフル)デッド、西のザ・フー”などと揶揄される、いわゆる「スモール・イン・ジャパン」の代表格のようなロック・バンドである(ヒッピー文化を代表するグレイトフル・デッドも、世界的には評価の高いバンドであるが、やはり日本では非常に知名度が低い。)。
ちなみに、「スモール・イン・ジャパン」の逆で、日本では人気があるのに、世界的にはそれほど大きく評価されていないロック・バンドには、「ビッグ・イン・ジャパン」というあまりありがたくないレッテルが貼られることがある。ここでは踏み込まないが、興味があれば調べてみてほしい。
ザ・フーの知名度が日本において異様に低い理由の主なものとしては、1965年にデビューしてから2004年に至るまで、バンドとしての来日経験がなかったことが挙げられるであろう(2004年以前には、ベーシストのジョン・エントウィッスルがソロで来日したことはある。)。来日しなかった理由として、ギタリストのピート・タウンゼントの祖父が第二次大戦のときに日本軍の捕虜となったためにピートが日本を嫌っているからとの説、ツアー中にホテルの部屋をメチャメチャに破壊するというエピソードやライブのたびにギターやドラムセットを破壊するという危険なパフォーマンスをプロモータが敬遠したからとの説など諸説あるが、いずれにせよ、バンドの全盛期に来日しなかったことが、日本での知名度の低さを決定づけてしまったといえるであろう。
決定的な理由がそうだったとしても、ファースト・アルバムが長く廃盤になっていたという事実こそが、知名度を低くとどめておいてしまったことの根本的な要因であったのではないかと考える。実はこのファースト・アルバムは、英国盤の他に、ジャケットや曲目が異なる米国盤、更には、英国盤や米国盤とジャケット及び曲目がそれぞれ異なる日本盤もリリースされているから、当時の日本のリスナーの(ごく)一部にもザ・フーの楽曲は聴かれているし、グループ・サウンズの雄であるタイガースも、ライブで“My Generation”をカバーしている(オリジナルの歌い方とはだいぶ異なるが、沢田研二の吐き捨てるような歌い方はこの曲に実にマッチしている。)。
しかし、いくら米国盤や日本盤が入手可能であって楽曲が聴ける状態であったとしても、やはり、オリジナルの英国盤が廃盤状態であったという事実は、バンドの存在そのものにネガティブな印象を与えたであろうことから、彼らの知名度を低いままに押しとどめてしまったことの最初の要因だったのではないかと考えるのである。
ファースト・アルバムに、いったい何があったのであろうか。
3.レコードに関する権利
ファースト・アルバムが廃盤となった経緯に話を進める前提として、レコードに関する権利について簡単に触れておきたい。
本稿ではこれまで「廃盤」の語を多用してきたが、そもそも、廃盤とはどのような状態を指すのであるのかをここで明確にしておくと、廃盤とは、レコードやCD等といった各種のメディアを販売カタログから削除して、レコード会社の在庫を処分することをいう。
一方、『My Generation』のような音楽作品をレコード等の各種のメディアで供給する元となる音源を記録した媒体(テープやディスク等)を原盤といい、この原盤に対する権利を、音楽ビジネスの世界では原盤権という。原盤権という文言は、音楽ビジネスの世界を司る法律である著作権法には明確な定義が存在しない文言ではあるものの、実務上、「レコード製作者がそのレコード原盤について有している権利・義務の総体」※1を指し、我が国の著作権法に従えば、レコード製作者の著作隣接権を中心としつつ、レコード製作者の報酬請求権、二次使用料請求権等といった複数の権利が含まれることが多いと説明される。
レコード製作者とは、音源を最初に媒体(テープやディスク等)に固定(録音)した者(原盤製作者)のことをいい、実務的には、原盤を制作する資金を提供して媒体に音源を固定するレコード会社(レコードレーベル)、音楽出版社あるいはプロダクションがレコード製作者になることが多いようである。
レコード製作者の著作隣接権とは、複製権、送信可能化権等といった複数の権利によって成り立っている。レコード製作者が例えばレコード会社である場合は、音源を原盤からレコードへと録音する行為を権利として保護しているのが複製権である。このように複製によって作成したレコードを販売して収益を上げることが、レコード会社のビジネスの中核である(現在は、レコードもCDも下火になっており、音楽はもっぱら「配信」(ダウンロードも含む。)という形態で聴かれるようになっていることは、本稿で取り立てて触れるまでもないであろう。)。
4.廃盤から復刻へ
では、本稿の本題に話を進めよう。
ファースト・アルバム『My Generation』のプロデューサーは、シェル・タルミーという人物が務めた。シェル・タルミーは、キンクスや、少しガレージ感のあるクリエイションといったバンドのプロデュースも行っていたが、いずれも短期間で関係が終了しており、プロデューサーとしての手腕はそれほど高く評価されていなかったともいわれている(実際のところはどうだったのであろうか、私にはわからない。)。
『My Generation』をリリースした後の1966年に、ザ・フーのメンバー及びマネージャーは、印税の取り分アップを主張するシェル・タルミーと対立し、シェル・タルミーとのプロデュース契約を解除した。これに対してシェル・タルミーは、英国盤の『My Generation』の原盤権は自分が所有していると主張した。すなわち、原盤に録音された『My Generation』の音源をレコードに録音する行為はシェル・タルミーのみが行えるのであって、ザ・フー側は『My Generation』の音源をレコードに録音して販売することはできない、という主張であって、ザ・フー側による原盤権のコントロールを排除しようとしたのである。
その後の1967年に、『My Generation』の発売元であるブランズウィックが閉鎖されてしまったことから、『My Generation』は市場に出回らなくなってしまった。シェル・タルミーに原盤権を握られている以上、ザ・フーは、『My Generation』を他のレーベルからも発売することができずに、彼らのファースト・アルバムは発売から2年であえなく廃盤となってしまったのである。
ところで、上記のように、シェル・タルミーは英国盤の『My Generation』の原盤権を所有していると主張したが、おそらくは、『My Generation』の原盤を制作したのはレコードレーベルのブランズウィックであろうと想定されるから、『My Generation』の原盤権はそもそもブランズウィックが所有していたのではないかと考えられる。これが事実関係として正しく、かつシェル・タルミーの主張が法的に正当であった(おそらくは正当であったと考えられる。)とすれば、シェル・タルミーは、原盤の制作後にブランズウィックから原盤権を取得した、あるいはブランズウィックと原盤権を共有していたものと考えられる。
どのような経緯があったのかは判然としないものの、廃盤になってからしばらくの後、シェル・タルミーとザ・フー側(ギタリストのピート・タウンゼント)との間の関係が修復して原盤権に関する処理が整ったことから、廃盤になってから35年後の2002年に、英国盤の『My Generation』がようやく復刻されて、再び日の目を見ることとなったのである。それまで私は、1990年ごろに入手した米国盤のファースト・アルバムしか所有していなかった(米国盤のファースト・アルバムのジャケットアートもなかなかかっこいいのである。)ことから、上掲した英国盤のイカしたジャケットアートで『My Generation』が復刻されると知ったときは歓喜して、すぐさま近くのディスク・ユニオンに予約しに行ったことを覚えている。予約特典で、日本盤のファースト・アルバムの紙ジャケットがついてきたのも嬉しかった。
5.マイ・ジェネレーション
最後は、『My Generation』の法的ないざこざから離れて、このアルバムの魅力について少しだけ触れて、本稿の締めくくりとしたい。
ザ・フーは、メンバー4人ともモッズでないにも関わらず、当時のマネージャー(キット・ランバートとクリス・スタンプ)の戦略によって、当時、ロンドンを席巻していたモッズ・ブームに乗せられて、『My Generation』をひっさげてモッズ・バンドとしてデビューした。
当時のモッズ・バンドは、R&Bやソウルといった黒人音楽をカバーしたビートナンバーを主なレパートリーとしていた。しかし、『My Generation』は、12曲中の9曲がザ・フーのオリジナル曲であり、カバー曲はわずか3曲のみという、当時のビート・バンドのファースト・アルバムにしては異例の構成であった。しかも、オリジナル曲はいずれもクオリティが高いことで有名であり、聴く者は、痺れるようなギターのイントロに続いてボーカルが絡み合ってくる1曲目の“Out in the Street”でまずは軽くノックアウトされるであろう。
クオリティが高いオリジナル曲の中でも、モッズ・アンセムとして名高く、後に数多くのメジャーバンドにカバーされまくった“The Kids are Alright”や、アルバムのタイトル曲でもある先に触れた“My Generation”のできは秀逸である。特に“My Generation”は、極めてシンプルだが攻撃的なギターのリフといい、リードベースとも称されるベースソロといい、「ジェ、ジェ、ジェ」とどもるように歌うボーカルといい、狂ったようなワイルドなドラムといい、いずれのパートをとってもロックのいいところを凝縮したような1曲である。歌詞の中にある“hope I die before get old(年とる前に死にたいぜ)”という一節が、この曲が労働者階級の若者にとっての重要なジェネレーションソングであったことを強烈に示唆しているといえよう。
ここまで『My Generation』を讃えてきたくせに、ちゃぶ台をひっくり返すようではあるが、私がザ・フーのアルバムの中で最も好きなアルバムは『My Generation』ではなく、1969年にリリースされた『Tommy』である。映画『あの頃ペニーレインと』において、主人公の姉が、主人公に「ベッドの下に自由がある」とのメッセージを残して出て行った後、主人公がベッドの下を探すと『Tommy』が出てくるというシーンは私の心を大きく揺さぶった。『Tommy』について、多言は不要だ。聴くなら心して聴け、とのコメントを付してオススメしたいアルバムである。
<注>
※1 『音楽ビジネスの著作権(第2版)』(2016)福井健策 編 前田哲男・谷口元 著(CRIC)P98
<参考文献>
・レコード・コレクターズ編(2004)「レコード・コレクターズ増刊 ザ・フー アルティミット・ガイド」(ミュージック・マガジン)
・安藤和宏 著(2018)「よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編(第5版)」(リットーミュージック)
・福井健策 編 前田哲男・谷口元 著(2016)「音楽ビジネスの著作権(第2版)」(CRIC)