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HELP!誰か教えて! -ビートルズの楽曲の著作権の移転の経緯-

2022.10.21


※本記事は、知財系ライトニングトーク#18 拡張オンライン版 2022 秋 に参加しています。

目次

1.はじめに

ビートルズの多くの楽曲の著作権は、2022年現在、世界最大の音楽出版社であるソニー・ATVミュージックパブリッシング(後述するように、現在は「ソニーミュージックパブリッシング」に社名変更されている。)がほぼ保有している。このソニー・ATVミュージックパブリッシングに対して、およそ5年前の2017年1月18日に、ビートルズのメンバーであったポール・マッカートニーが、楽曲の著作権の返還を求める訴えをNY連邦裁判所に提起した。当時、けっこうな話題になったし、関連記事も多く書かれたから、覚えている人も多いのではないかと思われる。

そもそもなぜ、ビートルズの元メンバーで数多くの楽曲を書いたポールが、本来であれば自分が持っているはずの著作権の返還を求めるような事態になってしまったのであろうか。5年前は深く考えるには及ばなかったものの、先日、昔の雑多な資料を整理しているときに、この問題を扱った当時のブログや記事が出てきて読みふけっているうちに、大好きなビートルズの知財関係をきちんと整理しておこうと考えるに至り、今般、ビートルズの楽曲の著作権の移転の経緯からポールの訴えの提起に至るまでの少し複雑な事情を追ってみることにした。

なお、ポールが上記の訴訟において自分が作った楽曲(ジョン・レノンとの共作の楽曲も含む。)の著作権の返還を求めていることから、本稿では、主にポールとジョンの手による楽曲の著作権の経緯について扱うものとし、ジョージ・ハリスン及びリンゴ・スターの楽曲の著作権については、基本的には触れないものとしている。

 

2.音楽ビジネスの権利関係

ビートルズの楽曲の著作権の移転の経緯を理解するための前提として、まず、音楽ビジネスの権利関係について触れておきたい。図1は、音楽ビジネスの権利関係を示す図である。図示のように、作詞、作曲、及び演奏等の実演を行うビートルズのようなミュージシャンは、基本的には、実演家としてレコード会社と専属実演家契約を締結し、タレントとしてプロダクションとマネジメント契約を締結し、かつ著作者として音楽出版社と著作権契約を締結する。

専属実演家契約では、ミュージシャンは契約期間中、そのレコード会社に専属して独占的に実演を行い、かつ実演家の著作隣接権(実演家が実演を録音、録画、譲渡等する権利)をレコード会社に譲渡することが契約として締結される。これにより、レコード会社は、レコーディングされた実演をレコード(CD)として販売したり、配信したりすることができるようになる。

マネジメント契約では、ミュージシャンは契約期間中、そのプロダクションに所属してプロダクションのマネジメントによって、ミュージシャンとしての活動を行い、ミュージシャンとしての活動から生じた全ての権利(著作権印税や実演家印税等を受け取る権利)をプロダクションに譲渡することが契約として締結される。プロダクションは、受け取った印税に基づいて、種々の形態でミュージシャンに報酬を支払うことになる。

著作権契約では、ミュージシャンは契約期間中、その音楽出版社に楽曲の著作権(複製権、上演権、公衆送信権等)を譲渡することが契約として締結される。音楽出版社は、譲渡された著作権の管理及び楽曲のプロモーション活動を行い、その対価として著作権使用料を受け取る。受け取った著作権使用料から、プロダクション(ミュージシャン)が受け取る印税が支払われることになる。ビートルズの楽曲の著作権に関する問題は、主にこの著作権契約に基づいて発生した事象に帰結する。

ちなみにわが国では、音楽出版社がミュージシャンから譲り受けた著作権は、JASRAC等の著作権管理事業者に信託譲渡されることが多い(この点、同じ著作権管理事業者であるNexToneは、信託譲渡という形式を採らずに委託管理という形式を採用している。)。

3.ビートルズの楽曲のクレジット

次に、ビートルズの楽曲のクレジット(著作者としての表記)を整理しておきたい。有名な話ではあるが、ジョンとポールの共作の楽曲、ジョンが単独で作った楽曲及びポールが単独で作った楽曲のクレジットは、レノン=マッカートニーのクレジットとなっている。

レノン=マッカートニーのクレジットだけでは、ジョンが作ったのか、ポールが作ったのか、あるいは共作なのかの判別ができないが、ジョンが作った楽曲はジョンがボーカルをとり、ポールが作った楽曲はポールがボーカルをとっていることが多い(2人の共作の場合は、2人でリードボーカルをとるか、2人でなんとなく歌い分けられているようである。)。

なお、これは他のメンバーが作った楽曲についても同様であり、例えばジョージがボーカルをとる“Something”はジョージの手によるものであるし、例えばリンゴがボーカルをとる“Octopus Garden”はリンゴの手によるものである(ただし、リンゴがボーカルをとる“With A Little Help From My Friends”や“Yellow Submarine”はジョンとポールの共作であるという例外もある。)。

 

4.レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の移転の経緯

続いて、図2に基づいて、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の移転の経緯をたどってみることにしたい。図2は、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の移転フローである。図示のように、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の移転は、第1フローから第4フローの4本のフローでたどることができる。本稿では、時系列が戻ることがあるものの、経緯をたどる容易化を図る観点から、第1フローから第4フローの順でたどることとする。

4.1 第1フロー

1962年にビートルズが、レノン=マッカートニーのクレジットの“Love Me Do/P.S. I Love You”で英国の大手レコード会社のEMIから英国でレコードデビューすることとなった。レコードデビューに際して、ビートルズは、彼らのマネージャーであるブライアン・エプスタインを代理人として、EMI傘下の音楽出版社であるアードモア&ビーチウッドと楽曲の著作権契約を締結し、“Love Me Do/P.S. I Love You”の2曲の著作権をアードモア&ビーチウッドに譲渡した(図のS1)。この著作権契約において、ジョンとポールはアードモア&ビーチウッドからレコード売り上げの印税の50%を受け取ることとなった。この当時、印税のミュージシャンの取り分が50%とされることは、ごく通常のことだったようである。

“Love Me Do/P.S. I Love You”の2曲の著作権を譲り受けたアードモア&ビーチウッドは、米国でのビートルズのレコードの配給元であってEMIに買収されたキャピトル・レコードの傘下に入ってモーリー・ミュージックへと改名しており、改名後も著作権を持ち続けていた。

一方、1979年にキャピトルを離れてCBSコロムビアに移籍したポールは、“Love Me Do/P.S. I Love You”の2曲を自分のもとに渡すことを条件として、80年代の中盤(85年、86年ごろであったと考えられる。)に改めてキャピトルに戻った。この2曲の著作権はポールに渡され(図のS2)、その後、現在に至るまで、この2曲の著作権はポールのもとにある。

余談ではあるが、“Love Me Do”を聴くと、高校時代にこの曲を友人と一緒に聴いていたときに、その友人が「なんでこんなかっこいい曲を演奏しているのがビートルズで、俺じゃないのだろうと思うと悔しくなる。」などと大それたことを言っていたことを懐かしく思い出す。

4.2 第2フロー

デビュー曲“Love Me Do/P.S. I Love You”は、英国のヒットチャートで最高17位を記録したものの、EMIやビートルズ関係者にとっては、当初の期待ほどではなかったようであった。マネージャーのブライアン・エプスタインは、デビュー曲の不振はアードモア&ビーチウッドのプロモーション不足であると考え、次の曲からはアードモア&ビーチウッドには任せられないと判断した。

よい音楽出版社を探すことが急務となったブライアンは、音楽プロデューサのジョージ・マーティンの勧めもあって、1961年にディック・ジェイムズ・ミュージックという音楽出版社を立ち上げていたディック・ジェイムズに声をかけた。ブライアンは、2曲目のシングルとなる“Please Please Me”のアセテート版をディックに聴かせて、ヒットさせるのに力を貸して欲しいと頼んだ。“Please Please Me”を気に入ったディックは、自身がもともと歌手でもあったことから、音楽業界に顔が広く、電話1本で全国ネットのテレビ番組へのビートルズの出演を決めてしまったのである。番組では“Please Please Me”を演奏し、ビートルズは見事、テレビデビューを果たしたのだった。

ビートルズのテレビ出演を実現させたディックの腕を信頼したブライアンは、“Please Please Me”とそのB面になる“Ask Me Why”の著作権をディック・ジェイムズ・ミュージックに譲渡した(図のS3)。“Please Please Me/ Ask Me Why”は、1963年1月に発売されてたちまち大ヒットとなり、ビートルズはいきなりトップスターの地位に駆けのぼった。

その後も、ディック・ジェイムズ・ミュージックは、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の譲渡を受けてプロモーションを行っていたが、ディックは、ビートルズの楽曲のプロモーションを専門に行う音楽出版社として、後述するノーザン・ソングスを立ち上げたことに伴い、ディック・ジェイムズ・ミュージックのもとにあったレノン=マッカートニーの楽曲の著作権を次々とノーザン・ソングスに移管しはじめた。しかし、ブライアンの進言によって、“Please Please Me/ Ask Me Why”の2曲だけは、ノーザン・ソングスに移管されることなくディック・ジェイムズ・ミュージックに留め置かれた。

その後、種々のいきさつがあって、ディック・ジェイムズ・ミュージックは、1986年に大手レコード会社のポリグラムに買収され、この買収に伴って、“Please Please Me/ Ask Me Why”の著作権もポリグラムに移管された(図のS4)。更にその後の1999年、ポリグラムもユニバーサル・ミュージックに買収され、現在、“Please Please Me/ Ask Me Why”の著作権は、ユニバーサル・ミュージックのもとにある(図のS5)。

余談ではあるが、少しだけ“Please Please Me”について思いを馳せると、この曲は出だしのブルースハープもめちゃめちゃカッコいいが、サビ部分の「カモン!カモン!」というジョンのボーカルが猛烈にカッコいいのである。我々の世代(いわゆる団塊ジュニア世代)はおそらく、「ひらけ!ポンキッキ」がこの曲の原体験ではないかと思われる。

4.3 第3フロー

ディック・ジェイムズ・ミュージックに“Please Please Me/ Ask Me Why”が譲渡された1ヶ月後の1963年2月に、ディックは、ディック・ジェイムズ・ミュージック、ジョン、ポール及びブライアンの合弁によるノーザン・ソングスという音楽出版社を立ち上げて、ビートルズの楽曲のプロモーションを専門に行うこととした。

1963年8月に、ブライアンを介してノーザン・ソングスとジョン及びポールとの間で著作権契約が締結され、1963年2月から1965年2月までにジョン及びポールが作曲する全ての楽曲の著作権がノーザン・ソングスに譲渡されることとなり、さらに1965年の契約では、1965年2月から1973年2月までにジョン及びポールが作曲する全ての楽曲の著作権がノーザン・ソングスに譲渡されることとなった(図のS6)。

ノーザン・ソングスの株式の持分は、ディック・ジェイムズ・ミュージックが50%、ジョンとポールが20%ずつ、ブライアン(ブライアンのマネジメント会社であるNEMS)が10%であったから、ジョンとポールも、株式の持分に応じて自分たちの楽曲の著作権をディック・ジェイムズ・ミュージック及びブライアンと共有していたのである。

さらにこれらの契約では、ノーザン・ソングスが印税の50%を受け取ることが規定されており、これがノーザン・ソングス(ひいてはディック)に莫大な利益をもたらすこととなったのである。

その一方で、利益が上がれば当然に税金も上がる。当時の英国の高額所得者に対する所得税は非常に高かったようであり、ジョンとポールも当然ながら高額所得者に該当した。レノン=マッカートニーのクレジットによる数々のヒットソングによってもたらされた資産をいかに守るかが、ノーザン・ソングスの関係者の課題となったことから、ディックは、1965年2月にノーザン・ソングスの株式を公開することによって、減税対策を講じることとしたのである。

その2年後の1967年8月(エポックメイキングなアルバム“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”の発表の2ヶ月後)、ブライアンがアスピリンの過剰摂取によって、この世を去った。自殺ともいわれたが、公式な検死結果によれば事故死とのことであった。これまでバンドのマネジメントを一手に引き受けてきたブライアンの死はメンバーに強い衝撃を与えるとともに、ブライアンの死によってメンバーは音楽ビジネスに直面することになったのである。

このとき、リーダーシップをとったのがポールであった。ポールは、自分がやらなきゃ誰がやるのだ?という意気込みでリーダー役に臨んだようであるが、それが仇となって、ポールとその他のメンバーとの間で対立が生まれてしまったのである。特に、1968年にオノ・ヨーコと付き合い始めたジョンとの関係が、急速に悪化してしまったようであった。それと同時期に、セッション中にジョージとリンゴがスタジオを飛び出すという事態が発生したり、ブライアンの後任のマネージャー候補がメンバー間で真っ二つに割れたりといったメンバー間での揉めごとが発生するようになり、メンバー間の軋轢によって解散がささやかれるようになったのである。

一方で、ジョン及びポールとノーザン・ソングスとの間の印税が、依然として60年代初頭に定められた50%のままであるということに、ジョンとポールは不満を爆発させ、ディックに契約の見直しを迫る等、ジョン及びポールとディックとの関係も悪化していったのだった。

世間でメンバー間の不和がささやかれるようになると、ディックは、ノーザン・ソングスの株価が大きく下落するのではないかと極度に恐れはじめた。いま、このタイミングで株を売り抜けることが最善策であろうと考え、かねてからノーザン・ソングスに関心を抱いていたルー・グレードにノーザン・ソングスの株の売却を持ちかけた。

ルー・グレードは、60年代の中盤には放送事業者としてもテレビ番組制作会社としても確固たる地位を築いていたATVミュージック(以下「ATV」という。)のオーナー実業家であり、そのATVは、サーチャーズ、サンディ・ショウ、キンクス等といったブリティッシュ・ビート勢を擁していたパイ・レコードの株を1959年に半分取得し、1966年には残り半分も取得して買収していたことから、音楽業界への進出はごく自然ななりゆきであった。

1969年に、ディックはルーとの間で、ノーザン・ソングスの自分の32%の持分をATVに売却する契約を締結した。契約を成功させるためには情報漏れを防ぐ必要があることから、ジョンやポールにも秘密裏で進められた(ジョンとポールがそれぞれ新婚旅行に行っている最中に、着々と進められたという。)。新聞発表で契約を知ったジョンとポールは、当然のごとくディックに怒りをぶつけたようである。

ノーザン・ソングスを設立した際の株式の持分に関する契約において、ディックがノーザン・ソングスの持分を売却する場合は、まずはジョンとポールに購入に関する選択権が与えられる旨の条項を盛り込まなかったことは、契約実務の観点からはビートルズ側の致命的なミスであったとの指摘がある。このような条項がなかったのだから、ディックは法的には適正な処理を進めていたと考えられるし、買収ビジネスを首尾よく進める観点からもスマートなやり方だったのかもしれない。しかし、レノン=マッカートニーのクレジットによる楽曲の帰趨に直結することであるから、情緒的かもしれないが、個人的には、まずはジョンとポールに事前に話がなされるべきであったのではないかと考えるのである。

ディックから株式を買い取ったATVは、ノーザン・ソングスの経営権を握るために、過半数の株の取得に動きだした。一方、ジョン及びポールも、ATVによるノーザン・ソングスの株式の買収に対抗して、ノーザン・ソングスの株の購入を画策した。しかし、ATVが54%の株を保有して、ノーザン・ソングスの経営権を握ったのであった。そうなると、ジョン及びポールにとって最良の選択は、自分たちの株をなるべくいい値段でATVに売却することであった。ブライアンの後任のマネージャーの1人となったアレン・クラインの進言に従って、ジョン及びポールの保有する株をATVに売却することになり、ジョン及びポールのほとんどの楽曲の著作権がATVのもとに集まったのである(図のS7)。これによって、自分たちの作った楽曲がジョン及びポールの手元から全て失われてしまったのだった。

第3フローは、まだまだ終わらない。

ATVとの駆け引きと並行したビートルズの事実上の解散(法的な解散は1975年になる。)、70年代に入ってからのジョンとポールとの間の諍い、さらには世界に衝撃を与えた1980年のジョンの暗殺といった幾多の負の事象が重ねられる一方で、ジョン及びポールの楽曲はATVのもとで権利関係が比較的「安定」しており、そのまま10数年の歳月が流れた。

ノーザン・ソングスのおかげでATVの売り上げは順調に伸びていった一方で、もともと映像事業で名を馳せたルーは、音楽事業を伸ばすよりも映画事業に進出することを試みはじめた。ATVの親会社であるACCは、映画事業を進める中でいくつかの世界的なヒットとなる映画を生み出したものの、1981年に参加した「レイズ・ザ・タイタニック」が興行的に失敗したおかげで大きな損失が発生することとなり、ACCの株価は大きく下がってしまったのである。

打開策として、ルーはATVの売却を検討して、ポールに2000万ポンドで売却するとのオファーを出したのであった。連絡を受けたポールは、レノン=マッカートニーの楽曲が自分のもとに戻ってくるチャンスであるとは思いつつも、ジョンと一緒に作った楽曲を自分一人で独占することに躊躇し、オノ・ヨーコに共同での買い取りを持ちかけたのである。しかしヨーコは、ルーが提案した買取額が高すぎるとして、買い取りにあまり乗り気にならなかった。ポールはポールで、自分が作った楽曲を取り戻すためになぜ金を払うのかについてしっくりといっていないところがあったようである。そもそも、ルーはノーザン・ソングスだけではなくATV全体での売却を目論んでいたのであって、自分の曲を管理しているノーザン・ソングスだけが欲しいポールの意向とは合致するはずもなく、売却に向けた話し合いはなかなか前に進まなかった。

その頃、オーストラリアの実業家であるロバート・ホームズ・ア・コートは、密かにかつ着々とACCの株の購入を進めており、いつの間にかACCの最大の株主となっていた。オーストラリアのメディアを買収していたロバートは、放送事業を行っているACCにかねてから関心を持っていたのである。その後の1982年4月に、ロバートはACCの買収を完了して経営権を手に入れた。

ところが、ロバートはビートルズの楽曲は好きだった(一方で、ビートルズ自身のことは好きではなかったらしい?)ものの、音楽業界でのビジネス自体にはさほど関心がなかった、というか自身のビジネス気質と肌が合わなかったようである。楽曲にお金をかける音楽事業が、ビジネスであるとは考えていなかったのだ。そのようなことだから、音楽以外の事業取引が常に優先され、ついに1984年の中盤には、ATVは売却に出されることが決まってしまった。

このとき、ACCの幹部からポールにも買い取りの声がかかったようであるが、ポールはジョンと作った楽曲を自分だけで購入することにやはり躊躇していたし、自分の楽曲に金を払うことについてもやはり理不尽だと考えていたから、話に乗ってこなかった。EMIにも声がかかったが、こちらも話がまとまらないといった状況の中で、1984年11月に買収の意思を表明したのがマイケル・ジャクソンであった。

ご存知のとおり、マイケル・ジャクソンは、死してなおも世界最大のポップスターとしての称号をほしいままにしているが、その当時も、2年前に発表したアルバム“Thriller”の世界的な大ヒットでポップ界に君臨していたのであった。そのマイケルが、世界最強の音楽タイトル群を手に入れようと画策したのである。ロバートとの長い交渉が続けられ、交渉開始から9ヶ月を経た1985年8月に、マイケルはロバートとの間でATVを買収することに合意できたのである。この買収は、税金対策の観点から、スタッフが解雇されかつ楽曲の著作権以外の資産が処分されてペーパーカンパニーにされたうえでの買収であったことから、マイケルは、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権のみを買い取ったことと実質的に同義であった。

ところで、ポールは、1981年ごろからマイケルとの交流を深めており、“Say Say Say”というシングル楽曲を共同制作するなど、密な関係を構築しつつあった。その関係が深められる中で、ポールは、自身の経験をもとに、楽曲の著作権をきちんと管理すればビジネスになるのだということをマイケルに伝えた。かつてのポールと同様、著作権について無知であったマイケルは、非常に驚きつつも音楽著作権ビジネスに目覚めたのである。自分が著作権ビジネスを教えた相手が自分の楽曲の著作権を手に入れてしまうという、まさに飼い犬に手を噛まれるといった事態に遭遇して、ポールはマイケルに腹を立てたようである。それ以降、ポールとマイケルとの交友関係は途絶えてしまったのであった。

このように、ATVを買収することによってレノン=マッカートニーの楽曲の著作権を手中にしたマイケルであったが、さすがは大スターなだけあってその生活費は月に100万ドル(日本円で1億3000万円以上!!)以上もかかるといわれていたところ、この高額な生活費を補填する手段を探していたことから、ATVを買収した10年後の1995年に、ATVのソニーミュージックとの合併を実現させてソニー・ATVミュージックパブリッシング(2021年に「ソニーミュージックパブリッシング」に社名を変更した。)を設立させた。これによって、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権は新会社であるソニー・ATVミュージックパブリッシング(ソニーミュージックパブリッシング)に移り(図2のS8)、現在に至っている。一方、マイケルは、新会社の50%の株式を保有することになった。

なお、2009年のマイケルの死後(衝撃的であった…。)、マイケルが保有していたソニー・ATVミュージックパブリッシングの50%の株式は、マイケル・ジャクソン遺産管理財団が引き受けることになったが、その後の2016年には、ソニーがマイケル・ジャクソン遺産管理財団から株式を譲り受けた。

4.4 第4フロー

ロバートとマイケルとの間の交渉によって、ATVがロバートからマイケルに移ろうとしている1985年ごろ、ロバートは、契約の署名の段階になって、“Penny Lane”が大好きな娘のキャサリンにこの曲をプレゼントしたいから、この曲をキャサリンにプレゼントできないのであればATVを売却しないと言い出した。ロバートの突然の主張に契約交渉の関係者達は当惑し、かつ憤慨したようであるが、最終的にはマイケル側がこの主張をのみ、“Penny Lane”はロバートの元に留まることとなったのだ(図のS9)。その後の1990年にロバートが亡くなり、“Penny Lane”の楽曲の著作権は、娘のキャサリンに相続されたものと考えられる(図のS10)。

余談ではあるが、かつてブリティッシュ・ロックの聖地巡礼の旅に出かけた際に、当然ながらリヴァプールのペニー・レインにも訪問した。初めての場所であったにも関わらず、楽曲に親しんでいたせいもあってかどことなく懐かしさを覚えた田舎道の光景を、今でも脳裏にはっきりと思い起こすことができる。

 

5.ポールによる訴えの提起

冒頭で少し触れたように、ポールは、2017年1月にソニー・ATVミュージックパブリッシングに対して、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権のうちのポールの持分及びポールが単独で作った楽曲の著作権の返還を求める訴えをNY連邦裁判所に提起した。すなわち、上記の第3フローに乗った200を超える楽曲の著作権の返還を求めたのである。この訴えは、1976年に改正された米国著作権法に規定された「終了権」に基づいてなされたものである。

終了権とは、1978年よりも前に①著作権を移転した場合や②著作権のライセンスをした場合(これら①及び②を「権利付与」という。)には、著作者あるいはその承継人は権利付与を終了させることができるという権利である(すなわち、①の場合には著作権の返還を求めることができることになる。)。このような強力な権利が規定された背景には、当時、米国の著作権の保護期間が延長されたことが密接に関係しているようであるが、この点については本稿では触れない。

終了権は、著作権が最初に保護された日から56年後を始期とする5年間のうちに権利行使をすることが必要であるから、最短で、保護が始まってから56年後に著作権が返還されることになる。ビートルズのデビューは1962年であり、レノン=マッカートニーの楽曲の著作権の保護期間も同じ年に始まっていると考えられることから、ポールは、56年後である2018年から著作権を順次取り戻せていることになる。

さらに、終了権を行使する場合は、権利行使をする2年前までに権利付与をした相手方に通知をすることが必要である。ポールも、2016年までにはソニー・ATVミュージックパブリッシングに対して終了権の行使を通知したようであるが、ソニー・ATVミュージックパブリッシングがこれを不服としたことから、上記の訴えの提起に至ったようだ。

この訴えは、和解で決着することとなった。和解の結果は、裁判上は開示されないから、当事者が開示しない限りその内容を知る由もないが、ポールが著作権を取り戻すことができたのであれば、ポールが単独で作った楽曲の著作権は当然ながらポールが保有し、レノン=マッカートニーのクレジットの楽曲の著作権は、ポールとソニー・ATVミュージックパブリッシングとの共有ということになっているだろう。ポールは、「僕のベイビーたち」といって自分の楽曲を慈しんでいたというが、そのベイビーたちはいま、どこに所在するのであろうか。

 

6.おわりに

このように、レノン=マッカートニーの楽曲を中心としたビートルズの楽曲の著作権の移転の経緯を追ってみると、網の目のように複雑で錯綜していることがよくわかる。彼らの楽曲の権利関係がここまで錯綜してしまったのは、音楽をよく知っておりかつ愛していたディックの手を離れてしまったことが、最大の原因であるように思われる。

ノーザン・ソングスをATVに売却する際にジョンやポールに声をかけなかったことや、マネージャーのブライアンをはじめビートルズの面々が音楽ビジネスをよくわかっていなかった初期の頃に設定された50%という印税の取り分を最後まで変更しなかったこと等に、ジョンやポールはディックに怒りを覚えていたようであるし、彼らのみならず、ビートルズのファンといった世間もディックを非難的に見ることが多いように思われる。

しかし、ビートルズがデビューした1962年当時の英国の音楽業界では、音楽出版社と作詞家や作曲家といった著作者(ビートルズの場合は各メンバー)との間での印税の比率が50%ずつとされることは、音楽出版社の行うプロモーション活動という貢献を考慮すれば一般的でありかつ妥当であったようだし(実際、我が国の最近の実情も、音楽出版社の印税の取り分は50%とされることが多いようである。)、ディックのやり方がフェアではなかったということでもないようである。むしろ、「(音楽業界人は)金のためなら平気で他人を生き埋めにする連中ばかりだ。だけどディックは信頼できた。騙し取られことなど一度もなかった」とのジェリー&ザ・ペースメーカーズのジェリー・マースデンの評があるように、ディックは関わったアーティストや業界人から、基本的には信頼されていたものと考えられる。

リヴァプールのビートルズが世界のビートルズとなることができたのは、ジョンやポールをはじめ、ジョージ及びリンゴを含めた彼ら4人の才能があったからこそであるのは当然だとしても、ディックが関わっていなかったら、ここまでの成功はなかったかもしれない。そのくらい、ビートルズに対するディックの貢献(役割)は大きかったものと考えられる。

その一方で、いかに、ノーザン・ソングスをATVに売却する際の手続が法的に適正であったとしても、いかに、ジョンとポールがノーザン・ソングスの売却に反対するであろうと事前に想定されたとしても、彼らは楽曲の創作者なのであるから、まずは彼らにノーザン・ソングスを購入する意向があるかどうかを確認することこそが創作者に対して払われる敬意であったといえるだろう。ディックがノーザン・ソングスをATVに手放すに至った事情は汲むことができるとしても、その確認こそが必要だったのではないかと考えるのである。

音楽ビジネスは著作権ビジネスである以上、そのビジネスにおいて最大の利益がでるように著作権を活用することが重要なのはもちろんである。その一方で、著作権は、創作者の感情表現の結果物としての著作物に与えられる権利であるから、創作者である著作者の意向が尊重されることも等しく重要である。ビジネス上の利益と著作者の感情とのバランスがとれた活用がなされてはじめて、著作権が効果的に機能するのではないかと考える。

 

<注>

※ ブライアン・サウソール ルパート・ペリー 著 上西園誠 訳(2010)「ノーザン・ソングス 誰がビートルズの林檎をかじったのか」(シンコーミュージック)P68

 

<参考文献>

・ブライアン・サウソール ルパート・ペリー 著 上西園誠 訳(2010)「ノーザン・ソングス 誰がビートルズの林檎をかじったのか」(シンコーミュージック)

・安藤和宏 著(2018)「よくわかる音楽著作権ビジネス 基礎編(第5版)」(リットーミュージック)

・福井健策 編 前田哲男 谷口元 著(2016)「音楽ビジネスの著作権(第2版)」(公益社団法人著作権情報センター)

・「米国著作権の仕組み…『ビートルズの著作権』返還求めポールがソニー子会社を提訴」(http://www.oricon.co.jp/article/122434/)

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