サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第11回:パーソナルコンピュータの芽生え】
西海岸でコンピュータの民衆化の動きが本格化する少し前の1971年、ヒッピーの聖典である『ホール・アース・カタログ』は、巻を重ねるごとに大ヒットをとばす雑誌となっていた。『ホール・アース・カタログ』の大ヒットで、スチュアート・ブランドは、次巻を生み出す重圧に押し潰されてうつ状態に陥ってしまい、自殺まで考えるようになったという。周囲には、今では想像できないくらいポップな感覚で流通していたドラッグ※1で精神の安定を図るようにアドバイスをする者もあったようであるが、スチュアート・ブランドはドラッグに頼ることなく、うつ状態の原因となっている『ホール・アース・カタログ』の刊行をやめることとした。
『ホール・アース・カタログ』の刊行をやめるにあたって、スチュアート・ブランドは、『ホール・アース・カタログ』の「さよならパーティ(葬式)」を行うこととした。「葬式」では、『ホール・アース・カタログ』を最初に刊行したときの資本金と同額の2万ドルを準備した。これをしかるべき人に渡して再び社会に還元すれば、新たな面白いことが始まるのではないかと考えたとのことである。この2万ドル(種々あって厳密には1万5000ドル程度となった。)を手に入れたのは、フレッド・ムーアという若者であった。
フレッド・ムーアは、ガンディーを崇拝する非暴力主義者であって、学生時代に7日間のハンストという手法で反戦運動を行い、金こそが諸悪の根源であるという考えに基づいて金銭的及び物質的な拘束を拒否した筋金入りの政治活動家であった※2。フレッド・ムーアは、ふとしたきっかけでコンピュータの虜となり、金がなくても、コンピュータを使えば、人々が持っている力で多くのことが実現できると考えていた。
政治活動家である彼は、活動仲間同士を結びつけて多くのコミュニティを作り、さらにこれらのコミュニティを結びつけるといった組織化(オルグ)に関心を持っており、コンピュータを使って、活動仲間やコミュニティをつなぐデータベースを作成し、情報のネットワークを構築しようと構想した。
フレッド・ムーアは、多くのコンピュータの有識者と会って※3、コンピュータに関する知識をどんどん得ていった。彼は、前章で触れた『ピープルズ・コンピュータ・カンパニー』(PCC)のボブ・アルブレヒトとも会って、交流を深めていった。アルブレヒトは、フレッド・ムーアの情報ネットワークの構想をPCCで実現してはどうかと提案し、フレッド・ムーアも乗り気になった。フレッド・ムーアのカウンターな精神は、PCCの雰囲気ともマッチし、すぐに彼は、PCCの毎週水曜の持ち寄りディナーパーティの常連となったのである。
フレッド・ムーアがPCCに出入りするようになって、PCCでコンピュータ・ゲームの作り方を教える講座を開講するようになった1975年に、これまでにも何度か触れた、一般の人々向けのコンピュータ・キットであるアルテア8800が発売された。アルテア8800は、コンピュータとしての技術的な有用性が認められたものではなく、自分でコンピュータを組み立てることができるという創作性、アルテア8800を足がかりにして自分で機能を拡張させることができるという拡張性及びそこから導き出される将来性、さらにはお手頃な価格設定という点において、人気を博した※4。PCCの界隈でも、アルテア8800の登場は賞讃をもって迎えられた。
フレッド・ムーアは、みんなで助け合いながらコンピュータを手作りして、コミュニティ作りのための情報ネットワークを作ることができる自分専用のコンピュータを持ちたいと考えていた。アルテア8800が登場した今こそ、PCCでもそのようなクラスを作るべきであるとアルブレヒトに提案したが、アルブレヒトはこの提案を受け入れなかった。アルブレヒトの関心は、全ての人がコンピュータを使える世界を実現することにあったのであって、コンピュータを手作りして個人が所有するということには、全く関心をもっていなかったのである。
PCCでコンピュータが作れないならば、自分でクラブを立ち上げて、そこでコンピュータを作ろう。フレッド・ムーアは、同じくPCCでくすぶっていたゴードン・フレンチとともに、手作りコンピュータに関心のある人が集まるクラブを立ち上げたのであった。ハッカーというほどにはコンピュータに長けていなかったフレッド・ムーアではあるが、自分で作ってやろうという「DIY精神」は、まさしくハッカーのそれであった。
「名前はさして重要ではない。」ということで、レコーディングスタジオ(ヘッドリー・グランジ)の周囲をうろついていた黒い犬にちなんで、収録中のその曲が歌詞とは全く関係のない“Black Dog” ※5と命名されたように、「名前はなんでもいいが、“ホームブリュー(手作りの意)・コンピュータ・クラブ”とでもしておこうか。」※6といった具合に命名された※7そのクラブは、記念すべき最初の集会では32人で比較的ひっそりとスタートしたものの、それからほどなくして、コンピュータを手作りしたいと願う西海岸じゅうのホビイストを一人残らずかき集めるかのような強力な磁場を形成していったのである※8。
ホームブリュー・コンピュータ・クラブに集まったホビイストはみな、熱狂的な電子工作マニアであった。クラブでは、ハッカー倫理のもとで、運営に関する決まりや制限が設けられることがなく、集会では、基板設計や配線のマッピングといったテクニカルな情報の交換がメンバーの間で自由に行われた。クラブに集まったホビイストも、新しい時代のハッカーであった。コンピュータの知識を皆で共有し※9、助け合いながら、ホビイストは「自分が設計した基板、自分が配線したバス、自分がキーボードで打ち込んだプログラムが、初めて実行される瞬間」に向かって進んでいったのである。そのような熱気に包まれる中で、クラブの集会では、前に触れたスティーブ・ドンピアが、アルテア8800で“Fool on the Hill”や“Daisy Bell”を奏でるという画期的な成果も生まれたのである。
しかし、IBMをはじめとする象牙の塔の支配者たちは、クラブは素人集団の集まりであると考えていて、ホビイストの活動など歯牙にもかけていなかった。後にアップルとガッチリと手をつなぐアラン・ケイですら、「ホビイストは実際、自分たちのマシンが動いているときより壊れたときのほうが楽しい、なぜならそうなって初めて自分で何か手を出せるからだ。」と話していたという※10。
一方、クラブの熱気が高まってメンバーの技術力が高まるにつれ、2人の創設者は次第に居場所を失っていった。ゴードン・フレンチには、管理主義・合理主義的なところがあり、そのキャラクタがクラブの雰囲気にあまりそぐわなかったようである。フレッド・ムーアは、ホビイスト(ハッカー)というよりは政治活動家であって、クラブの活動は、コンピュータの技術的な側面を追求するよりも、コンピュータを使ったオルグや社会活動に向けられるべきだと考えていたことから、熱狂的なホビイストである他のメンバーとの間に明確な温度差ができてしまったようだ。メンバーは、フレッド・ムーアのような活動からは一線を引きたいと考えていたことから、彼が担っていた司会役(事実上のトップの座)をリー・フェルゼンスタインに求めた。
傷ついたフレッド・ムーアは、司会役の他にもクラブで担っていた役職を全て辞して、クラブを去った※11。ゴードン・フレンチも去り、設立からわずか数ヶ月で、クラブの運営は、早々と創設者の手から引き離されてしまったのである。ホームブリュー・コンピュータ・クラブは、フレッド・ムーアだからこそ作ることができたのであるし、偉大なクラブの設立者としてコンピュータの歴史に名前を残したものの、クラブ自体は、自作のコンピュータを使用して社会活動を実践するというフレッド・ムーアの設立当初の思いから微妙に離れて、コンピュータを作る技術の追求に突き進んでいった。
クラブには、ポータブル・コンピュータの先駆けとなる「オズボーン1」※12を作ったオズボーン・コンピュータ社をのちに設立したアダム・オズボーンや、長距離電話を不正に使い放題にする技術を開発した“キャプテン・クランチ”ことジョン・ドレイパーや、ドレイパーの技術に触発されて同じく長距離電話を無料で使うことができる「ブルー・ボックス」という装置を開発したスティーブ・ウォズニアックらが出入りしていた。
スティーブ・ウォズニアックは、ヒューレット・パッカード社(HP社)に勤務するコンピュータ技術者であり、浮浪者のような無精髭と長髪でだらしない服装といういでたちながら、コンピュータのことになると寝食を忘れて夢中になるという典型的なハッカーであった。ユーモアやジョークが大好きで、おおらかな性格であったことから、クラブのメンバーからは親しみを込めて「ウォズ」と呼ばれていた。
ウォズは、当時もてはやされていたアルテア8800が技術的にはたいしたものではないことを見抜いており、これよりも優れたコンピュータを作ることができると考えていた。クラブに出入りしながら、ウォズはメンバーと情報の交換を行って知識を深め、HP社に勤務しつつ、のちに「アップルⅠ」と命名されることになる、一つの木製の筐体(ボード)に全てのチップや回路が集積されたコンピュータを作り上げたのであった。
このアップルⅠは、それ単体では単なるチップの集合体である以外の何者でもなかったが、キーボード、ディスプレイ、カセットデッキといった「手足」を接続して、ウォズが書き上げたインタプリタをロードすると、たちまち実用的なコンピュータとして機能したのであった。アップルⅠはクラブにも持ち込まれ、メンバーからの称賛を浴びることとなり、ウォズはたちまちカリスマ的なヒーローとなった。ウォズの天才的なハックは、「オズの魔法使い」をもじって「ウォズの魔法使い」と称されることもあった。
クラブから、ついにパーソナル・コンピュータが芽生えたのである。
ウォズの学生時代からの友人でアタリ社に勤めていたスティーブ・ジョブズ※13は、アップルⅠに接して「こいつはビジネスになる!」ともくろみ、ウォズにアップルⅠを一緒に売ろうと持ちかけた。ウォズは、アップルⅠは自分や友人で共有して使えればそれでよいと考えていたが、クラブのメンバーからもビジネスにすることを勧められて、ついに売ることを決心した。1976年、二人は、ロナルド・ウェインを加えて、アップルⅠを製造販売する事業体を創業したのである。
ジョブズは、マリファナを吸い、東洋思想にかぶれ、ボブ・ディランを好むといったように、カウンターカルチャーの影響を受けたヒッピーあがりであって、果食主義を実践していたし、リンゴ農園から戻ってきたばかりでもあったことから、オールマン・ブラザーズ・バンドが「Eat A Peach」(1972)で「ピーチ」をモチーフとし※14、あるいはピンク・フロイドが「おせっかい」(Meddle)(1971)収録の“San Tropez”で「桃」をモチーフとした※15ことと同じように、「自然回帰というカウンターカルチャーの風味」もある「アップル」を用いて、事業体の名称を「アップルコンピュータ」とすることにした。今や世界最大級のコンピュータ企業となった、アップルの誕生である。
あとから振り返ってみてはじめてその偉大さを理解することができるというのが歴史の常ではあるが、アップルを生む礎となったのがホームブリュー・コンピュータ・クラブであり、クラブを作ったのがフレッド・ムーアであったことに思いを馳せると、クラブを作った直後にサイバーの世界からぷっつりと消えてしまったものの、彼の功績ははかりしれないものであったとすべきであろう。
彼の足跡は、鮮烈なデビューアルバム「夜明けの口笛吹き」(The Piper at the Gates of Dawn)(1967)を作り上げて斬新な音楽性や卓抜したアイデアで天才と謳われたにも拘らず、2枚目のアルバムの制作中にバンドを去り、バンドを去った後も残りのメンバーや他のミュージシャンに絶大な影響を与え続けた、ピンク・フロイドのシド・バレットの足跡と重なるところがあり、どちらに思いを寄せても目頭がふと熱くなるのである。
ところで、音楽好きのジョブズのことであるから、命名に際しては、ひょっとしたら、ビートルズが設立したアップル・レコードのことも頭の片隅にはあったかもしれない※16。アップル・レコードには、バッドフィンガーというイカしたグループが在籍していた。彼らが歌ったように、ジョブズとウォズは、互いにその存在なしではいられなかったであろうし、当然、アップルも誕生しなかったであろう。(I can’t live if living is)“Without You” ※17。
<注>
※1 後にコンピュータによる脳改革を提唱する心理学者のティモシー・リアリーが、ハーバード大学でドラッグの研究を行っていたということからも窺えるように、当時はドラッグによる意識の拡張や精神の安定が検討されていた。
※2 金銭的な拘束を拒否するフレッド・ムーアが、「葬式」で1万5000ドルを手にしたというのも皮肉な話であり、実際、フレッド・ムーアは動揺してしまい、1万5000ドルをどのように扱ってよいかわからず、ブリキ缶に入れて家の裏庭に埋めてしまったという。その後、裏庭に埋められた1万5000ドルは、前章で述べたコミュニティ・メモリで使用されていたコンピュータ(XDS-940)を所有するリソース・ワンというグループが所属する団体であるプロジェクト・ワンに出資されたようである。
※3 その中には、当時はゼロックスに在籍していたアラン・ケイが含まれている。
※4 このような個人向けのコンピュータは、メインフレームを扱うことができる人種や伝統的なハッカーからは、コンピュータとして考えられることはなく「おもちゃ」として考えられていたようであり、市場でも「ホビー市場」と称されていた。
※5 言わずと知れたレッド・ツェッペリンの、1971年のいわゆる『Ⅳ』(稀に『ZOSO』とか『Four Symbols』とも称される。)の冒頭に収録された曲であり、ハードロックの古典的な超名曲である。
※6 ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版 P.379
※7 最初の集会の際には、まだ名前は決まっていなかったようである。
※8 第4回の集会には、すでに100人を超えるまでに規模が拡大した。
※9 前に触れた、ビル・ゲイツとポール・アレンによって開発されたアルテア8800用のBASICインタプリタのテープが共有された「事件」も、クラブの集会においてのことであった。
※10 ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版 P.348~P.349
※11 プライベートでも大きな変化があったことから、クラブに居場所がなくなったことを契機として、西海岸を離れることにしたようである。
※12 設計は、リー・フェルゼンスタインである。
※13 30年近く前からアップル製品を愛用し、アップル製品の歴史や変遷を語らせたら右に出る者がおらず、ジョブズを「ジョブたん」と愛情たっぷりに呼ぶ、コアなアップルユーザの友人がいる。そんな彼に、アップル製品に対する思い入れを聞いたところ、「別にアップルが好きなわけじゃない。」、「ジョブたんは勝手なことばかりするから嫌い。」、「ジョブたんはジョブたんだからジョブたんと呼ぶ。ジョブたんが好きだからジョブたんと呼んでいるわけではない。そのうち君もわかる。」とおっしゃっていた。あれから10年くらい経ったいまも、全くわかるようになっていない。
※14 ギタリストのデュアン・オールマンが、「僕は平和のために努力している。そしてジョージア州に行くたびに平和のために桃を食べる(筆者注:ジョージア州は桃の産地として有名らしい。)。だけど革命は防ぎようがない。なぜなら進化しか道はないから。この国が様々な変化を必要としているのは理解できるけど、みんながもう少しだけ視野を広げてくれたら、そしてもっとヒッピー的な考えを持ってくれたら、きっと世界は変わってくれる。」と語ったことにちなみ、彼らの3枚目のアルバムは「Eat A Peach」と命名された(『udiscovermusic.jp/オールマン・ブラザーズ・バンド「Eat A Peach」:デュアン亡き後の名作アルバム』)。
※15 「桃に手をのばしながら、サン・トロペのソファから滑り落ちるぼく」(訳:今野雄二)という、サイケデリックな一節がある。
※16 ウォズがそのように指摘している。
※17 “Without You”(1970)バッドフィンガー
<参考文献>
・マーティン・トーゴフ 著 宮家あゆみ 訳(2007)『ドラッグ・カルチャー-アメリカ文化の光と影(1945~2000年)』清流出版
・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版
・スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社
・ウォルター・アイザックソン 著 井口耕二 訳(2012)『スティーブ・ジョブズⅠ』講談社
・フリー百科事典『ウイキペディア』「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」、「スティーブ・ウォズニアック」