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サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第10回:コンピュータを人々の手に】

2024.02.29

あらゆるカウンターカルチャーが隆盛した60年代のカリフォルニアを震源地としたコンピュータ革命は、カリフォルニアという場に宿る霊気によってなのか、70年代に入ってから、人々がコンピュータを自由に使える世界を実現しようというムーブメントへと発展し、コンピュータを普及させる数々の活動が興ったのである※1

 

カリフォルニア大学バークレー校出身のリー・フェルゼンスタインは、電子工作とSF小説に傾倒するというハッカーらしい青年時代を過ごす一方で、フリースピーチが全盛のカリフォルニアで革新的な政治運動に身を投じることとなった。この活動で培われたカウンターな思想が、「人々が心のままにコンピュータに触れ、実地体験によって自己を発見していくことができるようにする」※2という彼の目的を推進し、フェルゼンスタインにコミュニティ・メモリというコンピュータネットワークを作らせたのである。スチュアート・ブランド※3や後のスティーブ・ジョブズと同じように、フェルゼンスタインも、コンピュータとカウンターカルチャーの2つの世界にまたがる人物の一人である。

 

コミュニティ・メモリは、フェルゼンスタインがタイムシェアリング型の大型のコンピュータ(XDS-940)を管理(ハック)することとなったことに端を発する、世界初の電子掲示板である。1973年に、フェルゼンスタイン(とその仲間たち)は、XDS-940につながった端末(テレタイプ)をバークレーにあるレオポルド・レコード店の2階に設置し、街の人々が自由に使ってコンピュータにアクセスできるようにしたのである。

 

フェルゼンスタインらは当初、人々がコミュニティ・メモリに関心を持つかどうか懸念していたらしいが、その懸念は杞憂に終わり、多くの人々が、テレタイプを介してコンピュータにアクセスすることによって、情報の交換を始めたのである。

たとえば、誰かが「おいしいベーグルを売っているお店を教えて」と入力すれば、翌日には、他の誰かがそれに対する回答(例:ベイエリアだったらこのお店がオススメだよ。)を入力するといった具合である。ほかには、勉強仲間を求む、チェスの対戦相手を求む、セフレ(!)を探している等の書き込みとそれに対する応募といったメン募板※4のような情報交換や、『裸のランチ』のドクター・ベンウェイになりきった輩による「ベンウェイ参上、豊かなデータベースという果てしない砂漠にたたずむ、独りのデイ・トリッパー」※5といった「うわごと」のような書き込み等がなされ、現在のネットカルチャーのような空気感が醸成されていったのだ。

 

ところで、コミュニティ・メモリのシステムの使用方法を説明するポスターには、サイケデリックなうさぎが描かれたデザインのものがあったというが、このデザインは明らかに、前にも触れた、『不思議の国のアリス』をモチーフにしたジェファーソン・エアプレインのドラッグ・ソングである“White Rabbit”に触発されたものであるとみて間違いないであろう。このようなところにも、コンピュータとカウンターカルチャー、サブカルチャーとの間のつながりがみられるし、テレタイプが設置されたコミュニティ・メモリの拠点がレコード店であったということも、コンピュータとカウンター・カルチャー、サブカルチャーのつながりを示唆するようで、非常に興味深い。

 

ダイマックス社※6というコンピュータ関連の書籍を出版する会社を起こしたボブ・アルブレヒトは、ギリシャのフォークダンスとワインを好み、若者にコンピュータを教えることに異様な喜びを感じていたコンピュータ技術者である(もともとは、ハネウェル社の航空宇宙技師であった。)。

「若者にコンピュータを教えることに異様な喜びを感じていた」という表現は、「若者にコンピュータを教えることは、アルブレヒトにとっては、少年にエッチないたずらをするのと同じようなものである。」との趣旨のフェルゼンスタインの言を受けてのものである。もちろん、アルブレヒトがショタ※7であったわけではない(と思われる)が、その種の性愛を抱く者が味わう快感にも似た熱情で、若者にコンピュータを教えていたということであろう。それにしても、アルブレヒトが本当にショタでなければ、フェルゼンスタインの上記の言は迷惑な話であるだろうし、気の毒である(笑)…。

 

アルブレヒトは、若者がコンピュータを習得していく姿を見て、コンピュータを人々に普及させることが自分の使命であると考えるに至り、フォークダンスとワインをお供としたコンピュータのセッションを開始した。そのセッションを記録するとともにコンピュータの大衆化を図ることを目的として、アルブレヒトは『ピープルズ・コンピュータ・カンパニー』(PCC)という雑誌を1972年に創刊したのである。

ちなみに、『ピープルズ・コンピュータ・カンパニー』という名前は、前に触れた、ジャニス・ジョプリンが在籍していたビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーをもじって命名されたようである。再三指摘するが、ここにもコンピュータとカウンターカルチャー、サブカルチャーとの間のつながりがみられる。

ついでに触れておくと、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの2人のギタリストのうちの1人であるサム・アンドリューの手は、ちょっとびっくりするくらいデカい(ようにみえる?)ので、興味があれば動画を検索して見てみてほしい。

 

PCCは、コンピュータの情報を共有する雑誌として成功した。アルブレヒトは、この成功を受けて、雑誌の刊行のみならず、コンピュータの普及を狙う活動を行う団体としてPCCを組織しなおし、ダイマックス社からPCCを分離した。PCCは、コンピュータ・センタを開設し、コンピュータに関心を持つ人が集まってきては、プログラミングやゲームに興じていた。

 

一方、PCCでは、毎週水曜日に持ち寄りのディナーパーティが開催されるようになった。このパーティは、カリフォルニアでコンピュータに絡む面々の社交場となり、リー・フェルゼンスタインもひんぱんに顔を出していた。このパーティに顔を出す面々の中に、ザナドゥ計画でハイパーテキストの研究を行ったサイバー世界の設計者(アーキテクト)あるいは提案者の一人であって、大型コンピュータの神格化を否定するカウンター精神にあふれた二部構成の『コンピュータ・リブ/ドリームマシン』を著したテッド・ネルソンがいたことは、PCCが人気を博すこととなったことに一役を買っているかもしれない。

 

テッド・ネルソンが1974年に書いた『コンピュータ・リブ/ドリームマシン』には、コンピュータが汎用的なメディアとして全ての人々に有用なものとなるべきであるというネルソンのマニフェストが述べられており、コンピュータの民主化を否定するかのようなコンピュータに関する「クズ」※8な考え方(コンピュータは一部の特権階級だけが扱えるものであるといった誤解)に対するカウンターな主張で貫かれていた。『コンピュータ・リブ/ドリームマシン』は、コンピュータに関するエッセイや詩、ネルソンが思い描くコンピュータの未来予想、SFチックなイラスト等といった狂躁的な※9コンテンツで埋め尽くされており、フォント数は小さくフォーマットは不規則であったものの、コンピュータを人々の手に渡すという使命を果たそうとする熱量が非常に高かったことから、コンピュータに興味を持つ人々の耳目を集め、新しいサイバーな世界の福音書となったのである。

 

コンピュータは限られた人々しか扱うことができないものであるといった保守的で選民的な風潮を打倒すべく、一般の人々がコンピュータに触れ合うことができる機会を提供し、次世代を担う若者にコンピュータの使い方を教え、コンピュータに関する知識やノウハウを共有する場を提供し、かつコンピュータの作り出す世界を描き出すといった、今回紹介したようないかにも西海岸らしい草の根活動を通して、パソコンが登場する下地が着々と作られていったのである※10

 

パソコンの時代は、着実にすぐそこまで来ていた。まだ姿は見えていなかったが、足音が聞こえ始めていた。今回の締めくくりには、これ以外のものはないであろうという決定「盤」に登場いただくこととしよう。“OK Computer” ※11

 

<注>

※1 前にも触れたように、そもそもカリフォルニアには、第二次世界大戦のころは軍需産業の一大拠点であってその後シリコンバレーを産み落としたという歴史があり、企業から出資を受けて研究開発を行うスタンフォード大学とカリフォルニア大学バークレー校という名門大学があったこと等から、先端技術が集積する土壌があったのかもしれない。そこに、カウンターカルチャーが作用して化学反応が起こって、コンピュータの大衆化が始まったのだとも考えられる。

※2 スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社 P.200~P.201

※3 スチュアート・ブランドは、カリフォルニアで芽生えたコンピュータとカウンターカルチャーという2つの世界を行き来していた第一人者であったことから、「一番流行っているイベントの縁を、サーフィンしているように見えた。」と揶揄されることもある(ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版 P.223)。しかし、彼のような存在がなかったとしたならば、パソコンは現在のような「一人複数台」の状態では存在しなかったかもしれない。ちなみに、時代の変化や流行に応じて、その音楽性をモッズ、グラム、ソウル、ディスコあるいはテクノと変えてきた愛すべきデヴィッド・ボウイの面影をスチュアート・ブランドに重ね合わせることは、さほど困難なことではないであろう。

※4 主にバンドメンバーを募集する掲示板のことを指すが、近年では、オンラインゲームの仲間を募集する掲示板もあるようだ。

※5 スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社 P.233

※6 「ダイマックス」という名称は、前にも触れたバックミンスター・フラーが作った「ダイマキシオン」という造語(ダイナミズムとマキシマムの組み合わせ)に着想を得てつけられた名称であるという。人類の生存を持続可能なものとするための方策を探求するというバックミンスター・フラーの思想がサイバーな世界に与えた影響は、決して小さくない。

※7 少年愛好家の愛好対象となる少年(主に中性的でかわいらしい顔をした少年であることが想定される。)、あるいは少年愛好家そのものを指す。

※8 『コンピュータ・リブ/ドリームマシン』の中で、テッド・ネルソンは、こうした考え方を「サイバークラッド」(サイバネティックスと「クズ」を意味するクラッドとを結合させたネルソンの造語である。)と称して非難し、一般の人(読者)に対しては「騙されてはならない」といった趣旨の警鐘を鳴らした。

※9 もちろん、最大級の賛辞として使用している。

※10 このような活動こそ、まさにハッカー倫理の顕れであると考えられるが、MITのハッカーに代表される伝統的なハッカーは、コンピュータを一般の人々に普及させる活動には興味を示さなかったという。彼らにとっては、「コンピュータにどれだけ美的で芸術的な『ハック』をすることができるかということが最大の関心事であって、それ以外のことは全て瑣末なことだった」とのことである。

※11 “OK Computer”(1997)レディオヘッド

 

<参考文献>

・スティーブン・レビー 著 古橋 芳恵 松田 信子 訳(1987)『ハッカーズ–コンピュータ革命のヒーロー』工学社

・ウォルター・アイザックソン 著 井口耕二 訳(2012)『スティーブ・ジョブズⅠ』講談社

・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版