サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第6回:巨人が作ったソフトウェアビジネス】
ソフトウェアの世界は、これまでみてきたフリーソフトウェア及びオープンソースソフトウェアに、プロプライエタリソフトウェアを加えた三位一体で成立している。プロプライエタリソフトウェアとは、ソフトウェアを書いたプログラマ(著作権者)あるいは配布者によって、ユーザの利用態様が技術的あるいは法的に制限されたソフトウェアのことをいうものである。
プロプライエタリソフトウェアを推進してきた代表者といえば、やはりマイクロソフトであろう。サイバーな世界の発展が、ハードウェアとしてのコンピュータの進化に大きく依存していた時代(60年代〜80年代後半)においては、コンピュータを作るハードウェアメーカーが、自社のコンピュータの仕様に合わせてソフトウェアを作成していた。いわばソフトウェアは、ハードウェアのおまけだったのであり、それだけでビジネスになるとは考えられていなかった。
マイクロソフトは、ソフトウェアをビジネス(お金)にした大立役者である。マイクロソフト帝国とも揶揄される巨大な事業体を構築するために行ってきた彼らの手法には数々の批判があるし、大帝国であるがゆえに傲慢とも受け止められがちな一方的な仕様変更等に嫌悪感を抱く向きも数多くあるものの、一つの巨大な産業を作り出したという点において、その功績は認められてしかるべきであろう。
余談ではあるが、日本マイクロソフトの批判やコンピュータ業界の裏話をユーモラスに描いたとされる中村正三郎氏の『電脳曼陀羅』※1は、デジタル信奉者を標榜しておきながら恥ずかしくも未読であり、サイバー曼荼羅的な観点からは、一読しておくべき貴重な文献であると考えている。
マイクロソフトと私の最初の接点は、MSXだった。MSXが出た当時、10代前半であった私は、MSXのことを、日本の各メーカーが「共同で」※2製造しているテレビゲーム専用のパソコン(テレビゲーム専用は言い過ぎかもしれないが、ホビーユースがメインであったことは確かであろう。)程度の認識しか持っておらず、アスキーとマイクロソフトとによって仕様が作り上げられたパソコンの規格であると知ったのは、だいぶ後(おそらくは、Windowsが登場した後だ。)のことである。したがって、MSXと出会ったときには、マイクロソフトという存在を認識していなかった。PC9800シリーズのような本格的なパソコンには価格的に手が出せない10代前半だった私には、比較的リーズナブルでテレビゲームが楽しめるMSX規格のパソコンは、非常に魅力的だった※3。
時を経て、私がマイクロソフトと再び接したのは、社会人になって初めて入手したデスクトップ型のパソコンに格納されていたWindows 3.1であった。学生時代に父親のパソコンで遊んでいたときには、真っ黒いOS(Operating System)の画面に文字で命令を入力していたが、GUI(Graphical User Interface)で命令を入力できるWindows 3.1のあまりの手軽さに、「マイクロソフト万歳!ウインドウズ万歳!!」と小躍りしたものである(だが、その当時パソコンでやっていたことといえば、ほとんど『三國志』(光栄)だけだったといっても過言ではない。)。Windows 3.1でも十分に魅力的であったが、私がWindows 3.1を入手した半年後に、社会現象にもなったWindows 95が登場し、以後、マイクロソフトの製品がソフトウェア市場を席巻したことは記憶に新しい(もしかすると、「記憶に新しい」と感じるのは、私と同じく団塊ジュニア世代及びそれ以上の世代だけであって、それ以降の世代、特に20代の若い世代からすれば大昔(ひょっとすると生まれる前だ!)のことであると感じるかもしれない。)。
そもそもマイクロソフトは、1975年に一般のユーザ向けに販売されたコンピュータ・キットでインテルのMPU(8080)が搭載されたアルテア8800※4で動作するBASICインタプリタを開発したことによって、世に出た。
アルテア8800には、16個のスイッチ及び複数のLEDがフロントパネルに設けられており、このスイッチでプログラムを入力すると、プログラムに応じてLEDが点灯するという極めてシンプルなものであったが、これが『ポピュラー・エレクトロニクス』(1975年1月号)で紹介されると、コンピュータの自作を試みる電子工作オタク(ホビイスト)たちの心をたちまちくすぐったようである。驚くべきことに、同誌を見たビル・ゲイツとポール・アレン※5は、実際のアルテア8800やインテルのMPU(8080)を一度も見ることなく、アルテア8800用のBASICインタプリタを開発してしまったという。
ビル・ゲイツとポール・アレンによって開発されたBASICインタプリタは、めでたくアルテア8800用のソフトウェアとして商用で配布されることとなったものの、アルテア8800の販促イベントの混乱に乗じて、「何者」※6かが、BASICインタプリタが記録されたテープを「借用」してホビイストの間で共有してしまったのである。これに腹を立てたビル・ゲイツは、ホビイストに向けて手紙を書き、これがいくつかの雑誌に掲載された。この手紙は、ソフトウェアに対価を支払わないホビイストを痛烈に攻撃する、怒りに満ちた内容であったが、ホビイストからすれば、ハードウェアのおまけであるソフトウェアになんで高額な金を払う必要があるのかと感じていたのであろう。「ソフトウェアに誰がお金を払うのさ?」
ひょっとしたら、このできごとが、ビル・ゲイツにとってマイクロソフト帝国を築き上げる原動力となったのかもしれない。
その後、マイクロソフトは、ふとしたことから、自社のパソコンの開発を企図していたIBMからOSの開発の依頼を受けることとなり※7、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社が開発したQDOSのライセンスを取得したうえでこのQDOSを改良してIBMに提供し、これがPC-DOSとしてIBMのパソコンに搭載されることとなった。マイクロソフトは、IBMとの間の契約によって、PC-DOSを他社にも販売することができたことから、他社に提供する際には自社のブランドとして、MS-DOSを使用した。マーケティングが功を奏して、MS-DOSは、IBMのパソコンのクローンを製造販売する多くのパソコン事業者のパソコンに搭載されることとなり(この点は後日、述べることとする。)、マイクロソフトの知名度は飛躍的に向上したのである。
その後もマイクロソフトは、1989年にOfficeを発表し、1991年には上述したWindows 3.1、続いて1995年には、全ての機能の起点となる「スタートボタン」が搭載されたWindows 95を発表し、ユーザの絶大なる支持を集めたことは、いまさらいうまでもないであろう※8。特にビジネスシーンにおいては、OSからアプリケーションソフトウェアにいたるまで、マイクロソフト以外の製品はほぼ見かけないという独占状態が、ある一定の期間においてみられた。今でもWindowsは、デファクト・スタンダード※9を語る際の代名詞となっている。
ではなぜ、マイクロソフトの製品が、OSからアプリケーションソフトウェアにいたるまで、ソフトウェア市場を席巻するほどユーザの絶大なる支持を集めることができたのであろうか。Windowsに着目してみれば、もちろん使いやすかったし、見た目や機能が斬新であったということが大きな理由であろうが、WindowsはMS-DOSにGUIを被せて、ちょっとした機能を追加したものである。そもそもMS-DOSは、上述したように、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社が開発したQDOSを下敷きにしたものであるから、マイクロソフトの完全なオリジナルではない。GUIの実装にしても、アップルのほうが先であった※10。もちろん、他社の開発した技術を用いたとしても、これだけ斬新な製品を作り上げたことそれ自体が評価されるべきではあるが、そのような例であれば、他にも存在するであろうと想定される。
マイクロソフトがソフトウェア市場を支配できた要因は、自ら開発を行って素晴らしいソフトウェアを作り出しつつも※11、必要とあれば技術を他社から取得し、場合によっては会社ごと買収し※12、用済みの提携関係をあっさりと切り捨て※13、ソフトウェアの世界で競合他社が存在しない状態を作り上げた点に求められるであろう(私見)。
ハードウェアの互換性が高まってパソコンがモジュラー化していったというデジタルの世界の大きな動向の中で、ソフトウェアをハードウェアから切り離して独立させて、行く手を阻む他社を追い落とす容赦のないビジネス戦略を実行して、ソフトウェアを独立したビジネスになるまで育成した。これがマイクロソフトの凄みであり、最大の功績なのだ。
ところで、ポール・アレンは、エキセントリックな演奏で天才の誉れが高いギタリストであるジミ・ヘンドリックス(「ジミヘン」と略して称されていることは周知のところであろう。)の大ファンであり、ジミヘン愛が強すぎて、ジミヘンとそのルーツを探ることを中心テーマとした「エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト」※14なる音楽体験型のロックミュージアムを、自身とジミヘンの出身地であるシアトルに設立してしまったほどである。
しかもポール・アレンは、ジョー・ウォルシュ※15やリンゴ・スター※16らとともにステージに立ってギターを演奏するほどの素人ギタリストでもあり、その腕前は、ワウ※17を交えながらアドリブで流暢なソロを弾き倒すという見事な腕前である。しかも、往年の大物ロックスターと同じステージという緊張感がハンパない中での演奏であるから、通常時の演奏力はもっと高いに違いない。
そんなポール・アレンは、悪性リンパ腫との闘いの末、2018年に65歳という若さでこの世を去った。早逝したサイバー世界の巨星は、この世のあらゆる「しがらみから解放」(“Stone Free” ※18)されて、向こうの世界で彼がひたすら愛したジミヘンとジャム・セッションでもしているのであろうか。
<注>
※1 「サイバー曼荼羅」の名称は『電脳曼荼羅』からパクったのではないか!?と捉える向きもあるかもしれないが、全くの偶然である。私が「サイバー曼荼羅」の連載を始めるに際して、タイトルも含めて企画内容を友人に話したところ、「中村さんの『電脳曼荼羅』にちなんだんだね。」と言われて初めてその存在を知った次第である。名称を変更しようかとも考えたが、名著のタイトルを連想させることは、それはそれで誇らしくもあるので、変更せずにここまできたのである。
※2 当時は「規格」という概念を知らなかったものの、各社が統一的に同じような製品を「共同で」作っているといった漠然とした認識があったのだと思われる。
※3 MSXでは、『ミステリーハウス』(おそらくは、アメリカのシエラオンライン社のバージョンではなく、マイクロキャビン版であろう。)、『ボコスカウォーズ』、『デゼニランド』、『ハイドライド』等のゲームをやりたかったが、結局私はMSXを入手することなく、初代のファミコンに熱狂したのであった。
※4 著名なSF映画である『スタートレック』に登場する惑星の名称にちなんで名付けられたという。
※5 ビル・ゲイツとポール・アレン、いうまでもなくマイクロソフトの創業者である。
※6 「犯人」と思しき人物は特定されているようであるが、ここでの開示は避ける。
※7 当時のパソコン市場では、デジタルリサーチ社のCP/MがOSの主流であったことから、IBMはデジタルリサーチ社に開発を依頼しようとするも交渉がまとまらず、マイクロソフトに依頼することとなった。
※8 もしかしたら、20代の若い読者の方にはピンとこないかもしれない。
※9 ある製品やサービスが、市場競争の結果、事実上、標準化された状態をいう。Windows以外の他のデファクト・スタンダードの例で他に著名なものとしては、VHS(死語か。)を挙げることができる。
※10 アップルから提訴されたGUIに関する著作権侵害訴訟では、アップルに競り勝った。
※11 例えば、WordやExcelといったビジネス向けのソフトウェアが挙げられる。
※12 例えば、マイクロソフトが最初に買収した会社とされるForethoughtが挙げられる。これにより、マイクロソフトはPower Pointを手中に収めたといわれている。
※13 IBMとの間でOS/2と称される新たなOSの開発を行ったが、Windowsの成功を受けて、ビル・ゲイツは「OS/2との提携は終わった。」とコメントしたとされている。
※14 「エクスペリエンス」には、体験型であるという意味と、もちろんジミヘンのバンドである「ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス」及びその1stアルバムの「Are You Experienced?」がかけられていることは、いうまでもない。
※15 ロックの古典、超名曲“Hotel California”を残したイーグルスのギタリストである。
※16 いわずと知れた、ビートルズのドラマーである。
※17 電子楽器の周波数を変えて、その出音を名前のとおり「ワウワウ」に変化させるエフェクター(機器)である。ジミヘンはワウ使いの名手であり、“Rainy Day, Dream Away”(「エレクトリック・レディ・ランド」収録)では、ギターが喋っているかのような強烈なフレーズを聴くことができる。
※18 “Stone Free”ジミ・ヘンドリックス(1967)“Stone”(石=しがらみ)で、「しがらみから解放される」といった意味であるという。
<参考文献>
・中野明 著(2017)『IT全史 情報技術の250年を読む』祥伝社
・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版
・竹林修一 著『カウンターカルチャーのアメリカ【第2版】希望と失望の1960年代』(2014)大学教育出版
・フリー百科事典『ウイキペディア』「マイクロソフト」、「マイクロソフトの歴史」