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サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第2回:触媒がコンピュータの夢を紡ぐ】

2023.02.06

ハッカー文化の源流を辿ろうとすると、ヒッピー文化あるいはこれを包含するカウンターカルチャーが出現する。そうだとすれば、これらを接続した人物がいるはずである。ヒッピーとハッカーとを接続した人物として、有名なところでは、スチュアート・ブランド、スティーブ・ジョブズなどが挙げられる。今回は、スチュアート・ブランドについて取り上げる。スチュアート・ブランドについては、多くの書籍等で紹介されているのでいまさら感は否めないものの、これからしばらく続くサイバー曼荼羅の散策の道程において幾度となく出会う人物であろうと想定されることから、サイバー曼荼羅の散歩者※1としてはどうしても触れざるをえない。

 

スチュアート・ブランドは、60年代にはヒッピー文化の渦中に身を置く一方でハッカー文化の渦中にも身を投じ、両文化に共通する因子の一つであるカウンター(反権力や反体制などを意味する。)な思想に基づいて活動した人物である。

ヒッピーとしての彼は、作家で当時のヒッピーの顔役だったケン・キージー※2やニール・キャサディ※3らとともにカリフォルニア(のサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区)で共同生活を営み、当時の西海岸を代表するヒッピーなロックバンドであるグレイトフル・デッドのおっかけをやっていたという(グレイトフル・デッドをはじめとする、ヒッピーに愛されたロックバンドについては、後日、大々的に書くこととしたい。)。

 

当時のヒッピーは、環境保護や動物愛護、自然食志向、フリーセックス、ドラッグの愛好、東洋思想への傾倒、共同体(コミューン)の形成といった特徴を有し、髪を伸ばして髭を生やし、体制に与しない姿勢を体現していた。このような典型的なヒッピーの姿は、カウンターカルチャーの象徴として、当時の映画でもしばしば描かれてきた。中でも、アメリカン・ニューシネマの代表格としても名高い『イージー・ライダー』(1969)の中で描かれるヒッピーの姿に、30年ほど前の私は大いにかぶれ、心を奪われたのであった(チューリップハットをかぶり、ベルボトムを履いて、大きなピースマークのバックルがついたベルトを愛用していた。)。

 

スチュアート・ブランドは、故郷や住んでいる街を出て自然に帰る生活を送るためにコミューンを作ろうとするヒッピー達に向けて、ヒッピーが自給自足の生活を送るために必要なグッズや情報を盛り込んだ『ホール・アース・カタログ』を1968年に創刊した。この「ホール・アース」(地球全体)という概念は、思想家、建築家、デザイナー、発明家といった数多くの顔を持ち、現在のSDGsにも概念的につながるであろう「人類の生存を持続可能なものとするための方策」を探りながら「宇宙船地球号」という有名な言葉を作り出した、バックミンスター・フラーの影響を受けて着想された。

『ホール・アース・カタログ』は当時、大きな反響を呼び起こしたらしく、アメリカのみならず、時代を経て我が国にも文化的な面での影響を及ぼしたようである※4。その最終刊に記された“Stay hungry, Stay foolish”を、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業記念講演で卒業生に語ったことは、あまりにも有名な話である。

 

『ホール・アース・カタログ』は、当時のヒッピーたちの絶大な支援を受けてヒッピー文化の隆盛に貢献したものの、30年近く前の私がファッションの面でかぶれたように、あるいは、時代は前後するがグラム・ロックの興隆によって表舞台に躍り出たゲイやバイセクシャルのファッション化のように、ヒッピー文化はロン毛や髭やドラッグや花の髪飾りといった外観上のスタイルのみならず、その思想や主義までもが時代の変遷とともにファッション化し形骸化されていった。“時代は変る。”※5のである。ベトナム戦争が終わるころには、ヒッピーの持つカウンターカルチャー的な装いは、自然や相互扶助やDIYを尊ぶアメリカの大企業の商品のアイコンとして利用されるようになって、ポップカルチャーの一部に組み入れられることになったのである。ヒッピー文化も、その時代に幕を降ろすこととなったのだ。

 

ところで、スチュアート・ブランドは、ヒッピー文化が幕を降ろすその少し前(彼がヒッピー文化の渦中に身を投じていた時期である。)、パロアルト研究所(PARC)で製作されたパソコンの原型の一つとされるコンピュータであるAlto(アルト)のデモンストレーションにおいて、さらにはスタンフォード大学のコンピュータセンターにおいて、スティーブ・ラッセル(スティーブ・ラッセルについては、後日述べることになるであろう。)が作った世界初のシューティングゲームである『スペース・ウォー!』に人々が興じているのを見て、衝撃を受けたようである。パロアルト研究所で、さらにはスタンフォード大学で、ハッカーと邂逅してハッカーの中にヒッピーと同根のカウンター思想を見出したのであった。

 

そのときの体験に基づいて、スチュアート・ブランドは、『ローリング・ストーン』誌(『ローリング・ストーン』誌を創刊したヤン・ウエナーも、ケン・キージーらとともにカリフォルニアで共同生活をしていたのだ!)で、「幻覚剤を手にして以来の衝撃がやってくる。コンピュータがまもなくわれわれのもとにやってくるのだ。」といった趣旨の記事を執筆し、Altoを含むコンピュータの紹介をしたのであった(1972年12月7日号)※6

スチュアート・ブランドの記事の評価はともかくとして、この記事が今でも語り継がれているそのゆえんは、幻覚剤(例えばLSDのようなドラッグ)もコンピュータも、「人間の意識を拡張するものである」という共通の機能を有するものであるというドラスティックな認識(ただし、このような認識は、スチュアート・ブランドを起源とするものではない。この点についてはいずれ述べる。)を人々に広めた点に求められるのではないかと考えている。このような認識が広められた結果として、幻覚剤と同じカウンターカルチャーのラベルがコンピュータにも付与されたのであった。

さらに、コンピュータにカウンターカルチャーのラベルが付与されたことを強調するかのように、スチュアート・ブランドは、「全てはヒッピーのおかげ(We owe it all to the hippies)」と題した、「パソコンもインターネットもウェブサイトもカウンターカルチャーが作り出した。」といった趣旨の記事を1995年の『TIME』誌に寄稿した※7。うがった見方をすれば、スチュアート・ブランドが自らの過去の行為を自己肯定する記事のようにも考えられなくはないが、サイバー世界の史実がスチュアート・ブランドの記事のとおりであれば、『TIME』誌の記事は事実の単なる指摘にすぎないし、その当否を見極めるという着眼点をもって散歩をするのもサイバー曼荼羅の醍醐味であるといえる。

 

ともあれ、スチュアート・ブランドのようなヒッピー文化に浴した人物が、コンピュータの世界を前に進めるハッカーたちの文化と出会ったことを一因として、ヒッピー文化とハッカー文化との間のつながりが顕在化したのである。西海岸で、カリフォルニアで、サンフランシスコで、ヒッピー文化とハッカー文化とが邂逅してときには融合し、混然一体となって強烈な光を放ちはじめたのである。個人的にはそれはまるで、リヴァプールでビートルズが誕生して以降、60年代初頭から中盤にかけて、ポップ・ミュージックの世界を作り上げたロックバンドの多くがロンドンを中心(しかも、ロンドンの西部を中心としたごく狭いエリアだ。)として誕生(あるいは活動)したことと軌を一にするかのようにも思えるのである。

 

さらに、スチュアート・ブランドは、1984年のハッカー会議において「情報は自由を求める(Information wants to be free)」との有名な発言をした。実は、この発言の前に、『ホール・アース・カタログ』では既に、情報を自由に共有することで情報の価値が劇的に向上することが指摘されていたという。

スチュアート・ブランドのこの発言における「情報」とは、デジタル情報のことを指すものと考えられており(以後、サイバー曼荼羅においても、特にことわりのない限り、単に「情報」という場合にはデジタル情報のことを指すものとする。)、発言の趣旨は、デジタル情報はコストゼロで複製されるものであるから、その流通にかかるコストもゼロに近づいていくということである。

 

情報の自由は、ハッカーを知るうえで非常に大きなキーワードとなる。情報の自由に対して極めて真摯かつ忠実に向き合い、フリーソフトウェア運動なる運動(ムーブメント)を進めていったのが、東海岸から現れたサイバー世界の巨人であって最後の真正なハッカーとも称される、リチャード・ストールマンである。

散策が始まったばかりでまだ先が見えないサイバー曼荼羅の世界で、“お次は誰” ※8に遭遇するのであろうか。

 

<注>

※1 「散歩者」という言葉の響きには、寂寥感やちょっとした薄暗さ(おそらくは、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』に起因するものと思われる。)があって、実に好ましいものである。

※2 代表作に『カッコーの巣の上で』(1962)がある。ヒッピーのコミューンである『メリー・プランクターズ』のリーダーでもあり、アシッド・テストと称されるLSDの普及活動を行った。

※3 ビート・ジェネレーションのヒーローであり、奔放かつ過激な性格で、放浪の旅をしたという。ジャック・ケルアックの伝説的なビートニク小説である『オン・ザ・ロード』(1957)の主要なキャラクターである、ディーン・モリアーティのモデルとなった。『オン・ザ・ロード』は、第4部あたりから俄然面白くなる。

※4 宝島社の『宝島』には思想的な影響を与え、平凡出版(現マガジンハウス)の『POPEYE』はカタログというフォーマットを踏襲したという形式面で影響を与えたという。

※5 「時代は変る」(The Times They Are a-Changin’)ボブ・ディラン(1964)

※6 ばるぼら さやわか 著(2017)『僕たちのインターネット史』亜紀書房 P.24

※7 池田 純一 著(2011)『ウェブ×ソーシャル×アメリカ<全球時代>の構想力』講談社現代新書 P.54〜55

※8 「お次は誰」(Who’ll Be The Next in Line)ザ・キンクス(1965)

 

<参考文献>

・ばるぼら さやわか 著(2017)『僕たちのインターネット史』亜紀書房

・ジョン・マルコフ 著 服部 桂 訳(2007)『パソコン創世 第3の神話 カウンターカルチャーが育んだ夢』NTT出版

・宮沢章夫 著(2014)『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』NHK出版

・池田 純一 著(2011)『ウェブ×ソーシャル×アメリカ<全球時代>の構想力』講談社現代新書

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