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サイバー曼荼羅 −コンピュータ文化をカウンターカルチャーのフィルタを通したときに見える世界−【第1回:サイバー曼荼羅の世界】

2023.01.11

デジタル技術は、情報をデジタル化した(情報のデジタル洗礼)。デジタル洗礼を受ける前の情報は、古くは狼煙、口伝、更には新聞や雑誌等、あらゆるメディア(通信手段)によって伝えられるものであったが、デジタル洗礼を受けた情報は、現代においては主にインターネットというメディアによって、人から人へと伝えられている。インターネットは、デジタル情報の流通を促進してその流通量を圧倒的に増大させた※1

 

マイクで弦の振動を拾い上げて(ピックアップ)電気的な音に変換するアナログでプリミティヴなエレキギター、エレキギターの電気的な音を真空管で増幅させてチリチリと焦げ付くような出音を作り出す個体差が激しいアナログなやんちゃ者のチューブアンプ、これらアナログなデバイスで紡がれた古いロックをこのうえなく好む※2私は、仕事ではデジタル技術を中心とした知財業務に従事している。

今日のデジタル技術関連のビジネスの中心にあるものは、いうまでもなくデータすなわちデジタル情報であるから、デジタル技術を中心とした知財業務を行う者は、日々、記号や符号、文字や画像、映像、音声、プログラムといったあらゆるデジタル情報にどっぷりと浸かって、デジタル情報と格闘しているのである。その結果、デジタルの沼にはまっていくのである。

 

アナログなロックを専門分野とするも、それと矛盾することなく仕事を通じていつの間にかデジタルの沼にはまった私は、仕事に必要な技術情報を書籍やインターネット等で漁っているうちに、自分が扱うデジタル技術(デジタル情報及びそのデジタル情報を処理するコンピュータ技術)をとりまくサイバーな世界が現在のような姿となった主な要因が、ハードウェア指向からソフトウェア指向へ、あるいはモノからサービスへのパラダイムシフトであったことを認識した。しかも、これらのパラダイムシフトを起因として、インターネットの登場をはじめとした社会を変えるイノベーションが起こったのであるから、今後のイノベーションの要因となるものを把握する観点からは、このようなパラダイムシフトが起こった経緯や理由を知る必要があるであろうと私は考えたのである。そこで、日々の業務をこなしながら、デジタル技術の根源は何か、これらはどこからやってきたのかといったことを渉猟するうちに、ハッカーの存在にたどり着いた。ハッカーといえば、一般的には、コンピュータに侵入してよからぬことをする人のように考えられており、かつては私もそのように考えていた。

しかし、ポール・グレアム※3によれば、ハッカーとは「コンピュータに、良いことであれ悪いことであれ、自分のやりたいことをやらせることができる者」のことであり、特にプログラマの間では優れたプログラマのことを指すのだという。

 

ハッカーには、体制や制度といったあらゆるものに拘束されることを嫌い、個人主義を尊重しつつも博愛精神にあふれ、言論の自由に執着するといったハッカーならではの思想と自由なライフスタイルとが結びついたハッカー文化があるという。ハッカーは、ハッカー文化のもとでプログラムを書きながら、デジタル情報の自由化を進めることによって、デジタル技術の発展に寄与してきた。フリーソフトウェア運動を作り上げた著名なハッカーであるリチャード・ストールマンが中心になって作り上げたコピーレフトという概念は、デジタル情報に関する著作権の規制をコントロールする考え方であって、デジタル情報の自由化の一つのあらわれである(リチャード・ストールマン、フリーソフトウェア、コピーレフトなどについては、後日、書きまくる。)。

 

自分が作り上げた(書き上げた)デジタル情報について、著作権を主張せずに(後日、これは多分に誤解を含む表現であることが判明する。)自由に流通させるといったハッカーの発想に新鮮な驚きを覚え、更に調べてみると、ハッカー文化の周辺にはヒッピー文化が存在していることがわかった。ハッカー文化を辿るとヒッピー文化が忽然と姿を現したことから、そのとき、私は、ヒッピー文化とハッカー文化とがつながって独自の文化圏が作り上げられて、現在のようなデジタル技術が誕生したのだと思ったのである。

 

「ハッカー文化とヒッピー文化とがつながる!?ヒッピー文化を支えた一つの大きな要素は、俺の大好きなロックではないか?」

 

60’s〜70’sのブリティッシュロック偏向型ではあるものの、ロックをこよなく愛する私にとっては、ヒッピーという言葉は、サマー・オブ・ラヴ、サイケデリック、フラワー・ムーブメント、ウッドストックなどといった当時を彩る幾多のキーワードとともに心に強く響くものがある。

 

ヒッピー文化は、それまでの体制や制度に拘束されることを否定する、60年代後半のアメリカ西海岸を中心としたカウンターカルチャーであって、ベトナム戦争の真っ只中といった世相とも相まって欧米を席巻したのみならず、日本の若者にも少なからずの影響を与えた。その一方で、ベトナム戦争の終焉や、ヒッピーと切り離すことのできなかったドラッグに対する取り締まりの強化とともに、ヒッピー文化も衰退し、西海岸のヒッピー達は次第に勢いをなくしてやがて消えていくのであるが、この点については今後、幾度となく触れることになるであろう。

ここで、カウンターカルチャーとは、ヒッピー運動、コミューン活動、反戦運動、公民権運動あるいはフリースピーチ等といった社会的・政治的活動を包含する概念であって、東西冷戦の中でベトナム戦争が勃発し、いよいよ核戦争が起こるのではないかとの不安を生じさせる根源(権力)に対する抵抗あるいは逃避が顕現化したものであったとの指摘がある。

 

体制などに拘束されないで自由に生きるというスタンスにおいて、ヒッピーとハッカーとは共通するものがあるのだろう。西海岸において、ヒッピーが築いてきた文化とハッカーが築いてきた文化とが交錯することによって、ヒッピー文化を含むカウンターカルチャーが、デジタル技術を構築したのであると、私はそう思ったのだ。ハッカー文化とカウンターカルチャーとが交錯して、カウンターカルチャーがデジタル技術を構築したのであれば、ロックを愛するデジタル信奉者としては、ハッカー文化とカウンターカルチャーとの間の奇妙な関係を読み解いてみる価値がありそうだ。進むべき道は決まった。

 

“道が拓けた!”ような気がした…が、それは気のせいだった。拓けたどころか、進めば進むほど、深堀りすれば深掘りするほど、混沌とするのだった。カウンターカルチャーとハッカー文化とのつながりを読み解くだけでは、デジタル技術の根源を求める旅のスタートラインに立ったどころか、スタートラインに立つための材料を見つけるためのソナー※4を手に入れたに過ぎないくらいであろう。そのソナーで旅の行き先をちょっとだけ照らしてみたところ、コンピュータやインターネットがデジタル情報をやりとりするサイバーな世界には、あたかも曼荼羅のような極彩色の複雑な光景が広がっていることがわかった。

 

そこで私は、デジタル情報を処理するコンピュータを中心として展開されるサイバーな世界に描かれる曼荼羅のような光景を「サイバー曼荼羅」と命名し、デジタル技術の取り扱いを巡る技術的な動き、社会的な動き、政治的な動き、文化的(ポップカルチャー、サブカルチャー、ネットカルチャー等)な動きなど、数々の動きに着目し、ときには積極的に脱線しながら(あるいは気持ちの赴くままかなり強引に私の趣味嗜好に結びつけながら)、サイバー曼荼羅を気ままに読み解くことを試みることとした。

あくまでも、サイバー曼荼羅を自由に散歩し渉猟し、その道すがらにおいて見つけた知見を少しずつ開示していくことが目的であって、何かのまとめや提言をすることを目的とするものではない(もっとも、途中で気が変わって「こうあるべきである!」といった宣言をするかもしれない。)。

 

これからしばらく、私はサイバー曼荼羅の広大な世界を気長に散歩していこうと思っている。広大な曼荼羅をさまよい歩くとなれば、ときに心が折れそうになることがあるかもしれない。そんなときには、同道者がいると心強いものである。だから、私がサイバー曼荼羅を散歩するときには、“あなたがここにいてほしい” ※5

 

<注>

※1 「サイバー曼荼羅」で扱う情報がデジタル情報であることを明確にするための序文である。

※2 一方で、シューゲイザー、エレクトロニカ、ポストロックやアンビエントなものも好むロック雑食系である。

※3 シリコンバレーの起業家、Yahoo!Storeの設計者、エッセイストである。

※4 センサーではなく、潜水艦に搭載されるソナーで探知するほうがサイバー曼荼羅のテイストであろうが、「その理由は、将来宣明する。」(「その理由は、将来宣明する。」は、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、極東国際軍事裁判所の管轄権の有無が争点となった際に、オーストラリアのウェッブ裁判長が理由を明らかにせずに管轄権があるとの判断を示した際に発した言葉であり、結局、その理由は宣明されることはなかった。)

※5 「炎〜あなたがここにいてほしい」(Wish You Were Here)ピンク・フロイド(1975)

 

<参考文献等>

・ポール・グレアム 著 川合史朗 監訳(2005)『ハッカーと画家』オーム社

・池田 純一 著(2011)『ウェブ×ソーシャル×アメリカ<全球時代>の構想力』講談社現代新書

・ばるぼら さやわか 著(2017)『僕たちのインターネット史』亜紀書房

・小林 正樹 監督(1983)『東京裁判』講談社

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